てが亡びて、すべてが新らしく生れて来なければならない劇壇――そこから生れて来たものは果して何でしたらう。営利劇場の基礎もない競走的宣伝、劇場の全滅をいゝ事にして、そこここに首をもたげた怪しげな新劇団、バラツク俳優、バラツク演技、バラツク興行師……。
私はいよいよ絶望しました。私は唯読んで書かうと思ひました。書いて読まうと思ひました。如何に叛かれても憎む事の出来ない演劇を狭い書斎の内に、それよりも狭い自分自身の頭脳の内に作り上げようとしました。そこへ欧羅巴から土方が帰つて来ました。
そして吾々の劇場を建てようと思ふがどうだと言ふのです。今ならバラツク劇場の建設が許される。そして、こゝ五年間はそれを吾々の舞台とする事が出来る。本建築で吾々が劇場を持つと云ふ事はいつ出来るか解らない。バラツクなら吾々の劇場が持てるのだ……。
吾々の劇場――自分達の研究劇場――それが持てるといふ事は、私にとつて可成り強い誘惑でした。私は何も考へず唯それだけの誘惑に引つぱられて行きました。「よし、やらう」私は直ぐに賛成しました。それがこの二月三日でした。
それから、この四ヶ月――それは総ての為の準備に費されました。
準備とは何ですか。先づ同志を糾合する事でした。若い同志が集つて来ました。毎日のやうに議論がありました。人々は附いたり離れたりしました。そして最後に組織せられた同人が演出家として土方と和田精と私と、俳優としての汐見と友田と、経営者としての浅利鶴雄とでした。この同人六人はこの劇場経営維持に同じ程度の責任と義務とを持つものでした。
敷地の選定、警視庁の許可、それにも二ヶ月以上の考慮と奔走とが費されました。建築のプラン、舞台設備の設計、観覧席の研究――それにも一ヶ月以上が費されました。今年一杯の演出目録の予定、同人以外の同志――その内には俳優もあり、照明家もあり、舞台装置家もあり、舞踊家もあります、――が集められました。
議論又議論、熟議又熟議、一つのアンサンブルとしての基礎は固くなつて来ました。最初に俳優の基礎教育が始まりました。発声、律動、発語の訓練が始まりました。建築についての当局との交渉も円滑に進みました。四月廿六日の朝、築地二丁目の小さな敷地に縄張りが施されました。そこの後には武藤山治氏の二千人はいるといふ演説場が既に天を突いてゐます。そこの隣りには団十郎座の建設
前へ
次へ
全21ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング