つてゐるのです。といふのは、長谷川如是閑氏の定義を拝借しますと、「文明といふものは生活表現の洗練である」といふことです。文化人が例外なく心掛けてゐる生活表現の洗練の中に、何が生れるかといふと、儀式が生れる、儀礼が生れる、といふことであります。儀礼儀式といふ点に触れますと、そこに一つの芝居的なものが自然に生れます。既にかういふ講演会といふやうなものも、或る意味では、芝居であります。胸にこんな花なんか付けて出てくる、芝居気が無くては出来ません。それからまた、道で人に遇つて挨拶をします、これもお互に、全く約束がなかつたならば何の事か判らない、頭を下げるが何の事か判らない、それがおじぎだといふことが判るのは、お互にさういふ約束があるからで、これが一つの儀礼であります。かういふ事柄が既に芝居の芽なんです。これを意識的に、諸君の生活の中に儀礼的要素を取入れるといふことが文化の一つの表はれでありまして、その取入れ方、取入れる質によつて、その文化の善し悪し、また、洗練されてゐるか、或はまた非常に幼稚であるか、粗野であるかといふことが判るのであります。
 私の考へるところによりますと、さういふ意味で、実
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