自問自答
――所謂「新感覚派」の為めに――
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幻象《イメージ》
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(例)あら[#「あら」に傍点]
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僕は未だ嘗て「余は新感覚派なり」と自称した覚えはない。また、人が「彼らは新感覚派をうち立てようと努力してゐる」と云ふのに対して、「然り」と云つた覚えもない。
処で、最近、新聞や何かで、大分「新感覚派」がやつつけられてゐるのを見て、「おれは一体、新感覚派なのか知ら」と自ら問ふた次第である。
文芸時代の同人は大部分新感覚派であるといふのが定評であるらしい。大部分と云ふからには例外もあるのだらう。おれは、その例外の一人に違ひない。かうも考へた。
しかし、新潮の合評会記事を見ると、錚々たる文壇の識者が、おれを新感覚派にしてくれてゐる。さて、話がわからない。
お前は、全体、新感覚派といふ意味がわかつてゐるのか、かう自ら問ふて見て、はじめて、いや、実は、そいつがわからないんだと白状する自分が、少々癪に触つたので、文芸時代一月号所載、横光君の巻頭論文や、いつか時事新報に出た片岡君の文章などを引張り出し、それを突きつけて、もう一度読んで見ろと云つたのである。
僕は、元来、人の議論がわからない性分で、その上、すぐに揚足を取りたくなる癖があつて、甚だ始末に悪いのであるが、両君の所説は、これはまた、一目瞭然、これに反対する人間がゐるのかと思はれるほど条理を尽したものであつた。
さて、新感覚派が、かういふものなら、お前も一つその仲間入りをさせて貰つてはどうかと、勧めるやうな気になつて、新感覚派を攻撃する手合の、一人や二人は引受けて見るつもりになるが、その相手たるや、甚だ、武士道を弁へてゐないらしく、何かと云へば、「作品を見せろ」「作品を見せろ」と、遠くの方で怒鳴つてゐる。
文学といふものは、好きでなければ面白くはない。殊に傾向的なものほどさうである。あら[#「あら」に傍点]ばかり探してゐて、何が面白いものか。屑屋にも劣る根性で、文学をやるのが間違つてゐる。
いや、面白いから好きになるのだと、うまく云ひ抜けたつもりでゐたら、それは、自分が文学の素人であることを告白するものである。
自分のことは棚にあげて置いてこそ、総て理屈が云へるのである。理論
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