段のつかないほど珍しいものだと云つたさうである。只なら欲しいといふ意味だらう。
これからも、恐らく、時計を買ふことはないだらう。いま時計など持つて歩くと、始終捲くのを忘れたり、それならいいが、自分で時計を持つてゐるのをすら忘れて、やつぱり、人に「いま何時?」などと訊くに違ひない。さういふ場合、後から気がついて、またへまなことを、例へば、「どうもこの時計は遅れていかん」なんて、云ひ出すかもわからないではないか。
それに第一、自分の時計が、それほど信用できるかどうか。ドンが鳴ると、一斉に時計を出して見て、一人が、「おや、今日のドンは三十秒早い」なんていふのは、まだ愛嬌にもなるが、「君の時計合つてる?」と訊かれ、即座に「合つてる」と答へる男は、そんなに頼もしくないやうな気もするのである。まして、「いま何時」――「今かい、今はね」と考へて、「零時…二十三分…十秒」などの気障《きざ》さ加減に至つては鼻持ちがならぬ。
私は、たまに――それこそ、ほんとに、百度に一度ぐらゐである――約束の時間に遅れることはあつても、断じて、その時間にきつちりその場所へ行き着いた例しはない。いつでも三十分か、時によると一時間早目に行き着くのである。さう心掛けてゐるわけではないが、さうせずにはゐられないのである。少し遅れて行くあの優越感に似た気持、わきから見るあの「ほどのよさ」を知らない訳ではないが、どうも、困つたもので、いつも早く行きすぎる。それが、恋人とのランデ・ヴウででもあるなら、まだ訳がわからないこともないが、旅行をする時の汽車の時間がさうである。芝居を見に行く時の開幕時間がさうである。晩餐に招かれた時がさうである。悲しいことには、借りた金を返しに行く時――もちろん、返し得る場合に限る――までが、さうなのである。
なんで、自分の時計など、あてにするものか!
私は、これまで身につけた時計の数は覚えてゐるが、これまで失つたステッキの数は覚えてゐない。それも、十三からステッキをついた筈ではないのに!
私は、私が嘗て朝夕の散策に伴つた数々のステッキの運命について、この日ほどしみじみ考へたことはない。この日とは、私が大枚二十金を投じて、アッシュとやらいふ自然木の、柄にはつつましく象牙をあしらつた、見るからになんでもないやうなステッキを新調した日である。
私が最初に握つたステッキは、
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