さえて、指のごく近くの所で噛み切り、そのまま勢よく噛むのである。すると、可なり豊富な汁が出て来て口中を一杯にする。そのうまさといつたら、とても風雅を解せぬ俗人どもには想像がつくまい。
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もう一つ、最後にこんな一節があるのを紹介しよう。
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一八一五年十一月の条約(註=ナポレオン失脚後、フランスが英、独、露、墺、スエーデンなどと結んだ第二パリ講和条約)はフランスに対して、連合国に七億七千万フランの償金を支払えという条件を押しつけた。その上、連合国個別の要求がこれに加わり、かつ、各国の君主および将軍たちが、てんでに勝手な理由をつけて補償金を出せと強請し、結局、国としての賠償総額は十五億を上廻つた。(註=今の金にすれば、数千億というところであろう)
このような巨額の金を、毎日なしくずしに現金で支払わねばならぬということは、やがてフランスの財政を破綻にみちびくばかりでなく、国民その日その日の生活も極めて困難になるだろうというので、国をあげて心配した。
ところが、案に相違して、すべては、取越苦労であつた。財政家が眼をみはつているうちに、支払いはいともやすやすと行われ、国の信用は高まり、借款はあとからあとから出来た。実際に、フランスでは、出る金よりも入る金の方が多いという証拠がちやんと数字の上で示された。
いつたい、何がわれわれを救つたか? この奇蹟をやつてのけたのは、そもそも如何なる神か?
ほかでもない、「食いしん坊」という神である。
フランスを占領している連合国の軍隊、プルトン人も、ゲルマン人も、チュートン人も、ありとあらゆる侵入者たちは、みな一様に、フランス人の「舌の戦術」にひつかかつたのである。彼等は稀にみる食慾と、非凡な胃袋とをフランスに運んで来た。美食になれない外国人どもは、フランスの土を踏んで、生れてはじめて舌の正月をしたのである。彼等は料理店でも、食堂でも、居酒屋でも、カフェーでも、屋台店でも、しまいには、歩きながらでも、食い、かつ、飲んだ。
この時期は、フランスの飲食品販売業者の黄金時代であつた。
フランス大蔵省が今朝払い出した償金の額より多くの金を、彼等連合軍の兵士たちは、フランス商人の懐ろにねじ込んで行つたのである。
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冗談でなく、われわれ日本人の舌はフランス人のそれに毫も劣るものでないことを、私は保証する。
国家の産業と、この事実とを結びつける有能な経済人や政治家が当今の日本にはいないものか?
底本:「岸田國士全集28」
1992(平成4)年6月17日発行
初出:「日本経済新聞」
1954(昭和29)年1月1日
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年12月11日作成
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