富である。外国兵がいないこと、女の化粧がつつましやかなこと、梅の花が美しく咲くことなど、私にはありがたい。
 ソクラテスの言葉として伝えられているのに、こんなのがある。曰く――「アテネの町は恋人の如くに人々から愛された。ここへ散歩に来ること、閑をつぶしに来ることを、人は愛した。が、何人も、これと結婚するほどには愛さなかつた。即ち、ここに移り住もうほどにはこれを愛さなかつた」と。
 アテネの町を小田原の町と置きかえてみたら不都合であろうか?
 山県有朋も伊藤博文も、ここに別荘を建て、それぞれ古稀庵、滄浪閣と名づけて、今もその跡が残つている。
 北原白秋も谷崎潤一郎も三好達治も、いずれもこの地を愛し、この地に何ものかをとどめ、そして遂にこの地を去つて帰らなかつた。
 しかし、これは小田原の罪ではなく、また誰の罪でもない。東京があまりに近く、かつ、人々が若すぎたというだけのことであろう。
 小田原という町は、ただ東京に近いだけでなく、日本国中のどこからでも、そんなに遠くないような気のする町である。おそらく、小田原の名を冠した「提灯」や「カマボコ」のおかげかもしれぬし、また、小田原評定などという言葉がどうやら緊迫した国際情勢を反映する、かのバーミュダ会談を連想させるからでもあろうか?
 郷土史家Nさんの説によれば「小田原評定」とは、とかく香ばしくない意味にとられがちだが、それもいわれのないことではないが、むしろ、これは、小田原の北条氏が鎌倉の北条氏よりも一層民主的な政治を行うために、下級武士をも含む代議制の評定衆なるものを設けたことに、もつと重要な意味があるのだそうだ。
 なるほど、こうなると、まことに進歩的な政治がこの小田原では早くから行われていたことになり、小田原こそは、ワシントンやモスクワとともに、世界の民主主義政治史に残る輝やかしい都市名となるであろう。

「名物にうまい物なし」というけれども、私はそんなことはないと思う。
 なるほど、土地のひとが自慢するほどにはうまくない、といえるものがたまにはあるが、概して、やはり名物はうまい。
 一番いけないのは、近頃、観光事業とやらの流行につれて、無理にでつちあげた「名物」である。
 私は断じて「美食家」とはいえないし、まちがつても「食通」ではないから、「味覚」や「料理」についてえらそうな口を利くつもりはない。しかし、人間の「食生活」についての、一人前の発言権だけは留保するものである。
 主食の不足が問題になつている時、悠長な「食談義」でもあるまいけれども、それとこれとはまた、話が別である。
 まつたくのところ、この小田原に余計なものは、それほどない、といつたがたつた一つ例外がある。「食べ物屋」の数が少しばかり多すぎることである。食べ物屋が必要以上に多いということは「無駄食い」という言葉を想い起こさせる現象で、大都会の盛り場ならいざ知らず、あまり日本の自慢にも小田原の自慢にもならぬ。
 それにつけても「食べ物」の話というやつは、多少度外れていても、そんなに実害がないばかりか、もし話し手にその人を得れば、けつこう「空腹」の足しになるという例が、今私の眼の前にある。
 これは最近、畏友関根秀雄君から贈られた同君訳の「美味礼讃」で、プリヤ・サヴァランというフランス人が今から二百年前に書いた世界的名著である。
「美味の生理学」という傍題をもつこの書物の不思議な面白さは、読者が知らず知らず楽しい食卓に連れて行かれるということである。
 そして、「うまい物」とは決して特別に金のかかるものではなく、どんなものでも、「上手に」食べることだと教えられ、誰でも、健康な感覚さえもつていれば、明日から「うまい物」が味えるという希望と自信とを与えられることである。
 さて、彼は、哲学者風にこういう――
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君はどんなものを食べているかを言つてみたまえ。君がどんなひとであるかを私は言いあてよう、と。
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 ところで、私は、彼の口真似をして、こういうことができそうだ。
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――君の郷里の名物を私に食べさせてみたまえ。私は、君たちがどんなひとであるかを言いあてよう。
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 彼は哲学者であつたばかりでなく、一世を風靡した名コックであるが、この書物のなかにこんな一節がある。
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――チーズのないデザートは片眼のない美女の如きものである。
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 するとわれわれは、東京でも大阪でも、ちやんと両眼をそなえた美人というものに出会つたことがないわけだ。
 彼の料理法の一例に――
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よく肥えた小禽《ことり》をクチバシのところでつまんで少々塩にまぶし、砂嚢を抜き、上手に口の中に入れ、歯でお
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