と云つた覚えは決してないのである。そんな非常識な議論を組み立てる勇気は私にはない。
 現に、本誌(「悲劇喜劇」)第二号の「語られる言葉の美」を読んで貰へば、私が如何に、「白」の感覚的効果を無視してゐないかがわかると思ふ。

 尤も、人の意見などといふものは、断片的な文章だけで判断することは多くの危険を伴ふもので、まして、芸術上の主義主張は、常に相対的意味を含めて解釈しなければならぬと思ふ。話は少し違ふが、ロマンチスムの主唱者ヴィクトオル・ユゴオがデカダン、ボオドレエルの芸術を讃美し、象徴派の巨頭マラルメが、自然主義の親玉ゾラの小説を推賞してゐるのを見て、人は不思議に思ふのであるが、実は不思議でもなんでもない。

 序だから云ふが、私は嘗て自分の雑文集に「言葉言葉言葉」といふ標題をつけた。ところが、それを、どう勘違ひしてか、その意味を「一にも言葉、二にも言葉、三にも言葉」といふやうな「肯定的」意味に解してゐる人が随分あるやうだ。これも、私を「言葉の信者」にしてしまつた一つの原因だらうが、あれは辰野氏の序文にもある通り、「ハムレット」の中の句から取つたので、「言葉の空しさ」を歎じた否定的意
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