作家山本人間有三
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頼母《たのも》しさ
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「作は人なり」といふ言葉は、言ひ古された言葉だが、これは正面から解釈をすると当らぬ場合がある。作品の一つ一つを取つてみても、ある作家の作品全体についてみても、この人にしてこの作ありとは、聊か意外だと思ふやうなことがある。それはつまり、ある作家は、自分のうちに「有る」ものを直接に現はさず、自分の心に「映る」ものを、好んで表面に出さうとするからである。その「映り」方や「出し」方に、その作家の「人」が浮び出ると云へば云へるのだが、さういふ種類の作家は、往々、好んで、自分のうちに「無い」ものを求めて、これに興味をもつものであるから、作品の姿や、調子からでは、その「人」の姿や調子は掴み出せないのが骨である。前者が「生み出す作家」だとすれば、後者は「作り出す作家」であると云へよう。
 さて、わが山本有三は、極めて例外的な作家で、この二つの傾向を、創作の二つの過程に取り入れ、「生みながら作り出す」非凡な事業に成功してゐるのである。彼の作品が、厳粛で、壮年的で、渋味を貴ぶにも拘はらず、誰にも興味をもたれるだけの普遍性があり、誰をも感動させる熱と力とがあり、従つて、今日、「最も勢望ある作家」の一人となつた所以は、しかし、たゞ、そこにあるのではない。
 彼は、その作品に、彼自身のあらゆる美徳――日本人が、古来、最も愛して来た美徳の数々を盛つてゐる。彼の作品に、一つの顕著な風貌を与へるとすれば、それは、恐らく、「頼母《たのも》しさ」であらう。われわれの歴史は、実に、この一語に、あらゆる道徳的陶酔の秘密を託して来た。私が、彼の戯曲の悉くにいまいましくも涙をしぼらされ、「何故に泣いたか」を考へてみると、それら戯曲中の人物が、あまりにも「頼母しすぎる」からだと云ひきれるのだ。
 だが、こんなことばかり云つてゐてはならぬ。私は、彼の戯曲家としての才能――日本近代劇山脈の高峰として、彼の傑作が、如何なる美学的特色をもつて現はれたかを語らなければならないが、残念ながら、紙数に制限がある。
 彼の劇的作品は、手法の上からみて、二種類に分けることができる。第一は、所謂伝統的ドラマツルギイの定石を踏んだストリンドベリイ的作品、第二は、新しい戯曲美の要素から成り立つチェーホフ的作品である。
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