るにはわかるけれども、いくらあつても足りぬやうな時間と労力の使ひ方をしてゐれば、それは、一向褒めたことではないのである。直接に子供のために使ふ時間と労力だけが、子供のためになるのではないといふことを、なぜもつと考へないのであらう。子供のためといふ名分があるだけに、私はとりわけ、さういふ母親に対して感謝をこめた希望を述べたくなる。
「かまける」ことから脱け出る工夫と、その修業こそ、女の「たしなみ」の大切な一項目である。
 何ごとにも「かまけぬ」主婦は、家庭生活を明朗にし、力づける。それがための準備は、ほんたうは、母の膝の上からなされねばならぬと思ふ。しかし、もの心づく娘時代からでも決して遅くはない。
 第四に、いはゆる「高い教養」が女性に何をつけ加へるかといふ問題である。正しい意味の深い教養は、たしかに、心を豊かにし、表情に磨きをかけ、趣味をよくし、智的な作業にも適する女性を作る。しかし、若し、高い教養なるものが、今日までのやうに、学校教育乃至は読書にのみよつて獲られたものを指すのであつたら、それは一般にも云はれるやうに、女性をして、女性の魅力の大部分を失はしめる結果に陥り易い。なぜなら、それは偏食に類するものであり、精神的にビタミンXの欠乏を来し、男子と肩を並べるつもりで、いつの間にか同性の群から落伍してゐるからである。
 男は「男」を磨くことによつて、人間的な高さを矜《ほこ》り得るのである。女も亦「女」を磨くことによつてのみ、人間の位《くらゐ》があがるのだといふことに気づかねばならぬ。
「女」を磨くとは、女の理想的「表現」をもつて、即ち最も洗煉された「女らしさ」によつて人に親愛畏敬の念を起させることである。
「高い教養」がかういふことに役立つなら、それは大いに身につけるがよろしい。しかも、それは、西欧的教養とは別個な伝統の上に築かれた、日本的「たしなみ」の会得と修練なしには、絶対に日本の女のもつ「高い教養」とは云ひ得ぬであらう。
 第五に「たしなみ」を行儀作法とのみ考へるのは大きな間違ひだといふことは云ふまでもないが、特に、女のたしなみとして、私は強靭な肉体の自由な操作と、敢為な気性のしなやかな表現とを新しい時代に求めたいと思ふ。つまり、女性的魅力に凜冽たる一面を必ず附け加へたいのである。
 これはなにも戦時だからと云ふばかりではない。そしてまた、これは決して男の
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