かにも冷やかに思はれたらう。今ならば、私もさう思ふ。
私たちの夫婦生活には、いはゆる危機といふやうなものは一度もなかつたやうに記憶する。二人は十分それを警戒し、それらしいものを意識することさへ恥ぢる気持が明らかにあつた。
しかし、それが結局、いゝことであつたかどうか、今の私にはわからない。雨降つて地固るといふやうな、さういふ経験を一度も味はない夫婦に、なにか欠けてゐるものがあるとしたら、私たちは正しくその部類に属するであらう。
家庭の平和といふ言葉が、それほど安易に使へるなら、私たちの生活は平和であつたと云つていゝ。それと同時に、問題にならぬやうな口喧嘩もしなかつたわけではない。それに、私たちは、いづれ劣らず喧嘩ぎらひの方であつたから、つい、喧嘩には身が入らなかつた。をかしいことに、早く冷静をとりもどす競争をするつもりだなと、雲行きの怪しかつた後の彼女をみると、私には思はれるときが多かつた。
日記を読んでから、家内のその時々の心の動きをはじめて知り得たといふやうなところもあるにはあるが、それよりもやはり結婚前の、それも恐らく誰にものぞかせなかつたらうと思はれる心の秘密の一切を、私が否応なしに聞かされたといふことは、これこそ私にとつて例へやうのない事件である。
そこには、夫たる私が知つてはならぬことが記されてゐたであらうか。私は敢へて云ふ。知つてはならぬことは何ひとつ記されてはゐない。しかし知らなくてもよいことが、そここゝにいつぱい書きちらしてあつた。
私は、はじめ、なにか取り返しのつかぬことをした、といふ気がした。私は読むべからざるものを読んだといふ、悔恨に似た苦味を胸ふかく味つた。だが、すこし落ちついて考へてみると、彼女は、特にそれを意識してではないにしろ、私の手に平然として自分一人の過去の歴史を残して行つたのである。それは、彼女が、私との結婚に際しても、なほかつ葬り去るに忍びない歴史として、筐底に納めたまゝ私の許に運んで来たといふことである。
かくて彼女は、彼女のすべてを私に示し、私に与へた。今、私は彼女の苦しみを、悲しみをわがものとすることができた。彼女の、終生追ひ求め、しかもそれがはかない幻影にすぎなかつたものを、私はやうやくにしてそれと察することができた。日記を通じて、口癖の「淋しさ」は、そこにあり、その淋しさのゆゑに、彼女は身をも心をも瘠
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