これらの作者は、少くとも、「自分の標準語」なるものが、「語られる」場合のギゴチなさ、魅力のなさ、性格づけの困難さを痛感してゐるのである。翻訳劇の大部分が犯した罪は、俳優に「翻訳的標準語」を語らせたことにある。程度の相違こそあれ、従来の劇作家は、登場人物の誰彼れに、差別のない、又は、類型に過ぎない一種の標準語をしやべらせたことから、対話の月並さ、生彩の乏しさ、引いて、現実感の稀薄さを生んだのである。方言の駆使は、たしかにこの弱点のいくらかを救つたと云へるだらう。
 しかし、活字としての方言は、正確にこれを現はすことも、読むこともできないといふ厄介さがある。私などは、さういふ厄介さを我慢して、人物の声の調子や、アクセントまで想像して読むから、よく書けてゐる場合は十分楽しめるのであるが、批評家は、しばしば、せつかちで我儘だから、これに文句をつけるのである。作者は、すると、また迷ひはじめる。さういふ例を私はたくさん知つてゐる。が、方言の駆使が自由にできる作者は、もう既に、標準語の欠陥を埋める用意ができてゐると云つていゝ。
 阪中正夫、真船豊、小山祐士、田中千禾夫等は、そろそろ、この方向へ眼を向けだしたし、森本薫は最初から、大胆に、標準語に関西言葉の精神を注ぎ込んだし、川口一郎は、移民的標準語を巧みに生かし、最近では、東京下町の「方言的ニユアンス」をもつて、特殊な世界を描くことに成功し、おのおの、戯曲の文体に新生面を拓いた。

 その他、私のいふ戯曲の本質的な生命を追求する新作家群のうち、今日まで、有意義な仕事を見せたものに、岡田禎子、内村直也、久板栄次郎、伊賀山精三、故三宅悠紀子、田中澄江、水木洋子、田口竹男等があり、他の方面から、まつたく新しい傾向の作品が現はれても、これらの作家の努力は、何時かは現代演劇の確乎たる基礎となるであらうことを私は固く信じる。



底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「文学界 第四巻第一号」
   1937(昭和12)年1月1日発行
初出:「文学界 第四巻第一号」
   1937(昭和12)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
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