の内外情勢に照して、甚だ不都合な側のいひ分であると断じなければ気がすまぬひとつの立場を、私は幾分承認できるつもりである。たゞ、双方で、さういふ対立する部分的観念(ある時代にはこれが部分的ではなくなるかも知れぬが)に拘泥して、自分たちが、「ある処までは」手をつないで共同の敵と戦ふ役割を果さねばならぬ――また、それが可能である、といふ事実を忘れてゐてはならぬと思ふのである。
 そのためには、どうしても、まづこの種の問題に関心をもつ文学者は、思想家である以上に政治家でなければならず、革命家である前に、啓蒙家(?)である必要がありはせぬか? 非合法の手段を懼れぬといふならこれはまた別である。活字として発表できぬ事柄を、無理に活字にしようとする苦心焦慮が、たま/\、今日、味方の揚足を取り、その言葉尻を押へて、間接の鬱積を晴らすといふことになつては困ると思ふ。誰がそんなことをしたと開き直られゝば、私は軍部大臣のやうに言葉を濁すかも知れぬが、なんとなく、そんな気がすることがある。
「寛容といふ陰険な近代病」もないことはないから、自ら自分の心に問うてやましくさへなければ、「文学」といふ仕事の名において、その人を信じ、当面の戦線を分担しつゝ、共同の活動に入るべき時期ではなからうかと、私はひそかに考へてゐる。
 その意味で、私は、文化的に「日本」だけが解決を急ぐ特殊な問題が沢山あると思ふ。しかも、そのなかには、文学者の手によつて解決の方向を与へらるべきものも少くないのである。さういふ問題を放棄して、如何に「人類文化のため」に戦つても、それは片手落でなければ、机上の空論である。
「文化はあと、思想が先」といふ説もあるが、それはどつちでもいい。理想をいへば、文学者は思想的な立場を異にするものが、なほかつ文化的には相互の立場を保護し合ふやうにできてゐるとさへ私は思つてゐる。さういふ面での、積極的な提携が、今日ほど有効で、必要な時機はないのだといふことを、みんなが早く気づいて欲しい。論争を封じてとまではいはぬ。論争の傍らでよろしい。戯談をいつてゐるやうに聞えるかも知れぬが私は今、戯談などをいへる気持ではない。
 早い話が、近頃の新聞か雑誌に、「文芸家協会の会館を建てるといふ計画はどうなつたか」といくぶん弥次り気味に書いてあるのを読んだが、第一、文芸家協会が何をしてゐるのかさつぱりわからぬといふ
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