熟な、芸術的天分の少い俳優は、常に、その「人物」を、期せずして、調子の低い、類型的な、如何なる意味に於ても魅力のない人物として「頭に描いて」しまふのである。これを訂正することは、如何なる演出家と雖も困難至極である。これに反して、才能に富み、教養豊かなる俳優は、戯曲に描かれた人物を、最も正確に、最も溌剌と、しかも、時として、その戯曲が求めてゐる以上、「魅力ある」人物として自分の頭の中に描き出す能力を備へてゐるのである。
芝居が「面白く」なるのは、多くこの秘密が土台になつてゐる。
即ち、かういふ俳優ばかりなら、稽古は恐らく一週間で十分なのかもしれない。が、事実は、然らず。現在日本の新劇俳優諸君は、その才能と教養を補ふ意味に於て最少限二た月の稽古を必要とする。そして、せめて、脚本中の一役を「十分に」理解し、これを「演劇」が求めてゐる程度に「魅力づける」努力をしなければならぬ。
今日までの新劇は、戯曲中の人物を、「消極的」に肉体化《アンカルネ》してゐたにすぎぬ。つまり、脚本と俳優とが手をつないで、辛うじて舞台の上を歩いてゐたのである。「面白い」芝居とは、少くとも、俳優が、独立して、舞台を闊歩せねばならぬ。脚本が、個々の人物に砕けて、俳優の中に融け込んでゐる状態から、「演劇」が始まるのである。脚本は俳優に人物Aを提供する。俳優は舞台に人物A'[#「A'」は縦中横]を運んで行くのである。AとA'[#「A'」は縦中横]との間には、文学から演劇に通ずる歴史の経過がある。即ち、作家的空想から俳優的空想への推移であり、発展である。戯曲の再現とはこのことを云ふのだ。過去の新劇は、畢竟、舞台より、この俳優的空想と、その表現の自発性を促すかの大切な感受性を排除してゐたのだ。芝居として面白くないのは当然である。同時に、日本の演出家が、常に俳優の指導者たらんとして、しかも真の俳優を作り得なかつた原因は、演劇論的にこの認識を欠いた結果に外ならぬ。
そこでこの「俳優的空想」なるものであるが、これは、元来、事新らしく論じるまでもなく、俳優の演技を生み出す根元であつて、その「空想」の質によつて、舞台の色調と品位を決定するものである。歌舞伎には歌舞伎俳優的空想があり、新派には新派俳優的空想が、曾我乃家には曾我乃家的、エノケンにはエノケン的空想があつて、それぞれ、芝居を種々な意味で「面白く」してゐるが、
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