び鳴りをひそめて以来、真に才能ある戯曲作家の一群がそれぞれ質実な、同時に溌剌たる作品を彼等の同人雑誌に発表して、輝やかしい未来を約束しはじめた。
彼等の書くものは、もはや、歌舞伎乃至新派俳優の手におへぬものである。更にまた、所謂今日までの新劇俳優と呼ばれるものの西洋翻訳劇の経験のみをもつてしては、満足な表現を期待することが困難なものである。それは、恐らく近代の教養と感覚とが、生活そのもののうちで整理された、品位とニュアンスに富む演技を必要とすることが誰にでもわかるのである。
が、さういふ素質の演技は、恐らく、俳優が舞台の上で修得するものではなく、生れながら、少くとも、俳優を志すと同時に会得してゐなくてはならぬ。言ひ換へれば、将来、全く別な方向から、俳優志望者を募らなければならないのである。ところで、現在の劇場は何れを見ても、かかる素質をもつた青年男女を惹きつけるやうな好餌がない。演劇の地平線は、まだ暗雲に閉されてゐる。
東京の大劇場では、欧米の都市ですら見られないやうな悪趣味と幼稚さが幅をきかし、半素人の研究劇団は、常に収支が償はぬため、気息奄々たる有様である。
昨年の暮、「わが演劇文化の向上発展を期する」目的で、新劇関係者の全部を網羅する一つの連絡協力の機関が設立された。日本新劇倶楽部がこれである。営利劇場に対抗して、真に演劇芸術の孤城を守らうとする同志の結合であるが、その事業は、極めて広汎で、且つ限定されてゐるにもせよ、この機運は、何れなんらかの実を結ぶであらう。
日本演劇の特殊性に興味をもつ人々が、この消息に多大の関心を示すだらうとは考へられないが、われわれは、われわれの特殊なものを誇示する前に、先づ、世界共通の文化の樹立を心がけてゐるのである。過去の遺産によつてのみ生きようとする民族の精神的怠惰と戦はねばならぬ。わが歌舞伎や能の審美的価値は、欧米人に如何に評価されようと、われわれは、その半面に於ける文化的反動性を指摘して、現代生活に何等慰藉と鞭撻とを与へるものに非ざることを、大声に叫ばなければならないのである。
この率直に過ぎるかもしれない報道は、愛国者であると同時に、国際人たらんとする一日本人の、共に真理と美を愛する世界の同胞に向つて、示し得るモデストな宣言である。(一九三五・一一)
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(
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