背景としてゐることはいふまでもない。
坪内逍遥はその先駆者である。彼は、俳優研究所を起し、イプセンの「人形の家」を上演し、シェイクスピヤの翻訳演出を試みた。
次に、小山内薫が、青年歌舞伎俳優左団次と共に、仏蘭西のそれに傚つて「自由劇場」を創立し、イプセン、ブリュウ、その他の近代劇を紹介上演し、新作家の出現を促した。
これに刺激されて、多くの研究劇団が生れる一方、歌舞伎や新派の俳優が続々「新劇」の畑へ乗り込んで来た。が、ただ単に、西洋の戯曲の逐字的翻訳やそれをお手本にした若年作家のたどたどしい脚本を、速成の俳優にやらせるといふだけでは、演劇自体の魅力は生れて来ない。イプセン、ストリンドベリイ、ハウプトマン、ショウ、チェエホフ、メエテルランク等は、その「文学」によつて新時代を陶酔せしめはしたが、舞台と作品との間に、到底埋めることのできない空白があることに気づいた時、「新劇運動」ははたと行き詰つた。
東京の大震災は、かかる時機に到来した。帝都の商業劇場は全部焼失した。
小山内薫と土方与志が、大きな抱負を以て、「築地小劇場」をこの灰燼のなかに建てた。小山内は主として露西亜劇を、土方は主として独逸劇の紹介演出を担当した。モスコオ芸術座のコピイを初め、欧洲大戦後の先駆的傾向は、次ぎ次ぎに舞台の見本となつて現はれた。スノビズムの勝利であつた。
三
演劇革新運動の勃興以来、純粋に「近代劇」を目指すことなく、歌舞伎俳優の演技能力を標準とし、若干の新趣向を盛つた「歴史劇」を書く作者が輩出した。坪内逍遥、岡本綺堂等はその代表的なものである。
しかしながら、彼等が歩む道とは全く別に、寧ろ単なる文学的要求から、西洋近代劇の思想と形式とを追求した新作家は、当然、商業劇場に迎へられることが遅かつた。真山青果、中村吉蔵、菊池寛、山本有三は、今日では、この一群を代表する大家である。それも、彼等の作品のすべては、歌舞伎乃至新派俳優の主なるものによつて舞台的成功を収めた結果、劇作家としての確乎たる歩を占め得たのであつて、その意味に於ては、彼等はなほ、前時代に繋る何ものかを、意識的にせよ、無意識的にもせよ、身につけてゐると思はねばならぬ。
真山青果は、秀れた技術家である。彼は、現在では時たま良心ある問題劇を提供する以外、商業劇場の註文に応じて、興味本位の通俗劇を数多くでつ
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