いふことである。台詞が云ひ易いといふことは、二つの場合がある。即ち台詞がよく書けてゐる場合。つまり自然な、又は板についた台詞である場合と、もう一つは、平凡な、単純な、大ざつぱな、露骨な台詞である場合と、――そして、この二つの場合は、全く相反してゐるやうであるが、「誰にでも云へる台詞」といふ点で一致する場合がある。つまり、自然ではあるが月並な、板についてはゐるがうま味のない、流暢ではあるが平坦な、さういふ台詞は、確かに、俳優のへたなことによつて、左ほど聞きづらくもならず、さうかといつて、俳優が上手でも、これまた、その割に聴き栄えのしない結果を生むのである。
 今日比較的新劇の舞台で成功し、未熟な俳優をして、天下に懼るべきものなしと云はんばかりの自信を抱かせ、日に日に、演劇を芸術家の手より遠ざけつつあるものは、誠にこの種の戯曲である。自然な会話、板についた台詞、これは、今日まで、舞台的伝統といふよりも、むしろ舞台的因襲の標準によつて律せられてゐたのではあるまいか。

 以上は単にその一例にすぎない。度々云ふことであるが、現在の演劇は、もうどうにもならないものである。われわれが明日に求める演
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