ついて語ることを許されるであらうと思ふのである。

 僕は第一に、毎月各種の雑誌に発表される戯曲が、如何に舞台的伝統を無視したものであるか、しかも、たまたま、その点でパスするものがあるとすれば、それはまた、如何に舞台的因襲に囚はれたものであるか、この二つの傾向について、若い演劇愛好者の注意を喚起したいのである。

 それならば、舞台的伝統とは何か。つまり、劇的伝統である。これは要するに、演劇が今日まで、それのみによつて、芸術としての存在を保ち続けて来た本質的の要素で、所謂「舞台の生命」を醸し出す表現の魅力である。
 これに反して、舞台的因襲とは、即ち、劇的因襲で、演劇が、それによつて、今日まで娯楽としての存在を主張して来た従属的の要素である。所謂「舞台の約束」と自称する、安易な手順にすぎないのである。
 なるほど、従来のドラマツルギイは、たしかに、この従属的の要素について論じすぎてゐる観がある。しかし、それは演劇が、他の姉妹芸術の如く、早くから俗衆に見切りをつけなかつたことに基因する。
 最近、「新潮」誌上や「都」紙上で、森田草平氏が論じてをられることは、従来のドラマツルギイから一歩も
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