思はないだらう。
俳優の演技によつて、その効果を左右されることが少い戯曲とは、一体どんな特色をもつた戯曲だらう。その特色は、果して、その戯曲の芸術的価値を高めるやうな性質のものばかりだらうか。これが問題なのである。
例へば、「筋が面白い」といふ特色もその一つに違ひない。これは、「主題の価値」と結びついて、確かに作品の芸術的生命を形造るものである。が、しかし、「その面白さ」は、ややもすれば、かの「劇的《ドラマチック》」なる美名の下に、通俗的興味を満足させるにすぎない場合が多いではないか。かうなると、単に「筋の面白さ」を求めることは、戯曲の邪道であり、演劇の堕落である。
次に、「場面の変化」である。これも、作品を単調から救ふ必然の変化であれば、何等問題はないのであるが、往々、目先を変へるための不自然な、取つてつけの「粉飾」を施すことがある。これも、絶対に作品の芸術的価値を高めるものではない。殊に、舞台の機械的装置によつて、観衆を眩惑しようと試みるが如きは、演劇と見世物とを混合するものであり、この種の演劇の道具に使はれる戯曲こそ迷惑千万だといはねばならぬ。
更に「台詞の云ひ易い」といふことである。台詞が云ひ易いといふことは、二つの場合がある。即ち台詞がよく書けてゐる場合。つまり自然な、又は板についた台詞である場合と、もう一つは、平凡な、単純な、大ざつぱな、露骨な台詞である場合と、――そして、この二つの場合は、全く相反してゐるやうであるが、「誰にでも云へる台詞」といふ点で一致する場合がある。つまり、自然ではあるが月並な、板についてはゐるがうま味のない、流暢ではあるが平坦な、さういふ台詞は、確かに、俳優のへたなことによつて、左ほど聞きづらくもならず、さうかといつて、俳優が上手でも、これまた、その割に聴き栄えのしない結果を生むのである。
今日比較的新劇の舞台で成功し、未熟な俳優をして、天下に懼るべきものなしと云はんばかりの自信を抱かせ、日に日に、演劇を芸術家の手より遠ざけつつあるものは、誠にこの種の戯曲である。自然な会話、板についた台詞、これは、今日まで、舞台的伝統といふよりも、むしろ舞台的因襲の標準によつて律せられてゐたのではあるまいか。
以上は単にその一例にすぎない。度々云ふことであるが、現在の演劇は、もうどうにもならないものである。われわれが明日に求める演
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