あせらないのだ。そして、かく云ふ私などが、これまで無数に発表したやうな雑誌的戯曲は、夢にも書かうとはせず、また、書く必要もないのだ。
かくの如き状態は、私に、かういふ結論を引き出させる。曰く、所謂、雑誌なるものの創作欄からは、将来「本当の戯曲」は現はれないだらう、と。
それと同時に、小説と戯曲とは、何れもその本質的両端に於ては、従来の兄弟づきあひ乃至夫婦関係の如き情実主義を清算して、全く赤の他人となり、偶々路傍に相見えても、お互に挨拶の面倒さへなくなるだらう、と。
だが、これは、袋小路の如き日本の文壇に於ては、定めし、不自然極まることであらうと思はれる。何となれば、小説七軒、戯曲一軒の割合にもならぬとすると、戯曲は、全く孤影悄然、話しかける相手もない有様が眼に見えるやうだからだ。そこで勢ひ、頭をもたげるのが、演劇の実際運動だ。さういふ機運に乗じて生れ出たものでなければ、真の底力ある新劇運動とはいへない。
ここには、雑誌月評家の小姑意識も働かず、作者自から、厳正な自己批判の前に立つて、才能の試錬に耐へなければならぬ。
さて、問題を、劇文学の領域といふ本題に引戻さう。
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