の興味ある問題であり、同時に、文壇ジャアナリズムの注意に値する現象だ。
歴史を遠く遡る必要はない。十年前には、小説家が戯曲を書けば、その戯曲はその小説と同等に評価されるのが普通であつた。処が、今日の小説家は、特殊な場合を除き、恐らく戯曲を書いて、その小説ほどの評価を得ることは困難だらう。その理由は、云ふまでもなく、今日の小説が、「本質的に」著しく「進化」してゐるのだ。そして、戯曲は、全く、進化の道を塞がれて、「本質的に」旧態依然たる有様だ。
ところで、これは別に悲観すべきことではなく、もともと、戯曲といふものは、その進化の道程が、小説とは自ら異つてゐるので、小説の修業は、必ずしも戯曲の修業と一致せず、小説の達し得る領域に戯曲が達し得ないといふことは、戯曲の達し得る領域に小説が達し得ないことを証明するだけだ。但し、さういふ見解は、十年以前には、まだ漠然としてゐたに相違なく、今日でも、なほ、文壇の一部では、無批判に、戯曲が小説のレベルに達しないと断言する人々がある。さういふ人々は、果して、わが戯曲壇の、最近十年間の歩みを観てゐるだらうか。私は、前に、戯曲は、全く進化の道を塞がれてゐたと
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