てゐるからだ。
もう一方、西洋では、学問のある人間と、学問の無い人間と、そんなに違つた言葉を使はない。日本ではその差がひどい。
西洋の作家は、学問の無い人間に面白いことを言はせる。それを日本語に訳すと、日本でなら学問のある人間しか使はない言葉になる恐れがある。然し、敏感な読者は、さういふ言葉を通しても、「言はれてゐること」が、いろいろの動機から、思想や学問と縁の遠いものであることがわかつて来る。それが一つの場面を通してその人物の学問や教養の程度を決定することになるのである。
日本の知識階級といふものが、これまた心細い知識階級で、学校で習つたこと以外に何も知らず、それさへ学校を出れば忘れてしまひ、専門的なことは兎も角も、一般常識さへ満足に有ち合はせてゐない。何を喋舌つても面白からう筈がない。その知識階級が、大きな顔をして舞台に現はれ、恋愛を論じ、生活を説き、甚しきは社会人類を憂ふるのであるから全くお話しにならない。
僕が嘗て日本の現代生活に「芸術的雰囲気」が欠けてゐると云つたのは、そこなのである。
作家の想像力も勿論足らないのだらう。それよりも、現代生活を形造つてゐる、われわれ
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