必要である。わけても、その国の社会状態を一と通り研究することが肝腎である。
 今、此の『別れも愉し』について見ても、女の生活はすぐに解るとして、此の男が、果してどれくらゐの社会的地位乃至教養の程度を有つてゐる人物か、それがわからなければ、第一、作品を味はふことが出来ず、それをまた、誤つて解釈してゐる場合には、白の妙味は丸で消えてしまひ、却つて、不自然さや、破綻を、読者自ら作り出すことになるのである。
 例へば、此の男を、高等教育ぐらゐ受けた青年紳士とでも思ひ違へて、一々の白を追つて行くと、誠に浅間しいオッチョコチョイに見えるばかりで、あの微笑ましい喜劇味が、作者の下らない気取りとしか思へなくなるかも知れない。
 これは註釈を附するまでもなく、少し欧羅巴の都会生活、殊に巴里の生活といふことを考へたら、今日日本の知識階級の男女が好んで使ふほどの言葉は、職工や女売子が平気で日常口にしてゐる程度の言葉だといふことぐらゐわかる筈である。
 学問と頭、思想と考へ、これは別物である。現代の日本では、学問をしないと頭が出来にくい。思想がないと考へが述べられない。さういふ傾きがある。これは社会がさうなつてゐるからだ。
 もう一方、西洋では、学問のある人間と、学問の無い人間と、そんなに違つた言葉を使はない。日本ではその差がひどい。
 西洋の作家は、学問の無い人間に面白いことを言はせる。それを日本語に訳すと、日本でなら学問のある人間しか使はない言葉になる恐れがある。然し、敏感な読者は、さういふ言葉を通しても、「言はれてゐること」が、いろいろの動機から、思想や学問と縁の遠いものであることがわかつて来る。それが一つの場面を通してその人物の学問や教養の程度を決定することになるのである。
 日本の知識階級といふものが、これまた心細い知識階級で、学校で習つたこと以外に何も知らず、それさへ学校を出れば忘れてしまひ、専門的なことは兎も角も、一般常識さへ満足に有ち合はせてゐない。何を喋舌つても面白からう筈がない。その知識階級が、大きな顔をして舞台に現はれ、恋愛を論じ、生活を説き、甚しきは社会人類を憂ふるのであるから全くお話しにならない。
 僕が嘗て日本の現代生活に「芸術的雰囲気」が欠けてゐると云つたのは、そこなのである。
 作家の想像力も勿論足らないのだらう。それよりも、現代生活を形造つてゐる、われわれが、もつと頭を錬ることだ。もつと考へる力を作ることだ。もつと自由に感じ、自由に述べる事だ。その上で「言ふべきこと」と「言ひ方」との間を好みの色で塗り上げることだ。
 われわれの日常生活は、もつと深く、もつと朗らかに、もつと調子よく、もつと楽しくなるだらう――少くとも傍観者にとつて。
 劇作家は、そこから、もつと多くの霊感と暗示を受けるだらう。
 ゴオルキイの描いた『どん底』にさへ、あの深さ、あの朗らかさ、あの調子のよさ、あの楽しさがあるではないか。それは悉く芸術家ゴオルキイの創造だと云ふのでせう。よろしい。日本の「どん底」に、あの「生活そのものゝ生彩」がありますか。いやさ、あゝいふ人物が一人でも日本にゐますか。あれほど「興味のある人物」がですよ。それは、露西亜人は、あの階級の人物さへ、「考へてゐること」が面白いからです。「考へ方」が自由だからです。「考へてゐることを上手に云はせる」のは作家です。露西亜人は――日本人を除いた何処人でも――「考へてゐることを上手に云ふ」事が不自然でないのです。何故なら、彼等は、「めいめいの表現」を有つてゐるからです。日本で若し、或る劇作家が、その作品中の人物に、「考へてゐることを上手に云はせ」たら、批評家はきつと、こんな人物は日本にゐないと云ふでせう。何故なら、日本人は「めいめいの表現」をもつてゐないからです。「考へ」のニュアンスを無視してゐるからです。お座なりと口上と紋切型が多すぎるからです。感情の表現がカテゴリックだからです。
「沈黙は金なり云々」の格言は、遂に、東洋流の解釈によつて、「咄弁は美徳なり」と同義になり、やがて、「月並な文句は粗服を纏へる真理なり」と敷衍せられ、遂に「退屈な話は人類を堕落より救ふ」とまで進んで来た。
 僕は潔よく人類たることを辞退する。

 議論がやゝ矯激に失したやうである。ルナアルが小鼻を膨らましてゐるだらう。
 処で何の話しをしてゐたかと云へば、わがルナアルの戯曲についてゞある。
 戯曲の文体――つまり対話の形式はいろいろあるだらう。第一作中の人物によつて違ふ。人物のコンディションによつて違ふ。然し、それらの人物の対話を通して、「作者独特の文体」といふものが論じられる。これは作者の素質である。
 同じやうに傑れた才能を有つた劇作家が、同じコンディションの人物を描いて、之に同じ対話をさせても、作者の異つ
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