ワす。
しかし、此の説は、大きなパラドツクスが含まれてゐる。われ/\が、常に天稟の素質の前に頭を下げなければならないなら、腕を拱《こまね》いて死を待つより外ないのです。
此の批評家が、何故に、劇作家だけが特に、「生れながら」劇作家でなければならないと主張するか、それは、劇作家だけが、当今、「誰でもなり得る」ものと信じられてゐるらしい風潮を揶揄したものであらうと思はれます。
ある批評家はまた、劇作に於ける art と 〔me'tier〕 とを区別して、作家の素質を論じてゐます。前者は云ふまでもなく芸術であり、後者は技術です。云ひかへれば、前者は霊感に属し、後者は、「思ひつき」に属すとも云ひませうか。或はまた、前者は先天的才能に負ふところが多く、後者は、職業的熟練に俟つべきものと云へば云へませう。
なるほど、かういふ風に考へれば、古今の劇作家について、一応その素質を吟味することができます。日本の現代作家についてもまた興味ある批判が加へられることゝ思ひます。
「劇作家は生れながら劇作家でなければならぬ」といふ議論も、結局、技術だけを生命とする劇作家は、真の劇作家とは云へないといふ主張が
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