念した。(但し長与善郎氏の「武蔵と卜伝」だけはこの限りに非ず)
 第二には、どれも一回しか読まなかつた。暇もなし、根気もなし、殊に……これは後でいふことにする。だから、もちろん、読みそこなひ、解り損ひ、時に感じ損ひが多からうと思ふ。僕は常に、佳い脚本なら五度くらゐ読まなければほんとの味が出て来ないものと思つてゐる。もつともさういふ脚本は、一度読んだ時に、はゝあ、こいつはたゞものでないといふことだけはかぎだせる。
 第三に、一二ペーヂ読んで、付いて行けないと思つたものは――さういふ経験をだれでも有つてゐるだらうと思ふ――一ペーヂづゝ、時には四ペーヂづゝ飛ばして読んだ。それで解ることだけは解るのである。もつともそれだけで、その作品がどれほど悪いかなんていふことはいはない方がいゝ。
 そこで結局、僕のきまぐれな印象記はいはゆる批評家の批評にはならずとも、一読者の声として、同じ作品を読んだ人達の「話相手」になればそれでいゝのである。
 先づ創刊の「演劇新潮」では藤井真澄氏の「雷雨」を読んだ。仲々芝居をやつてゐる。昔の壮士芝居を思ひださせる場面がありますね。これが大衆劇といふんでせう。なるほど大
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