女性」に「白扇の下に」を書き、「改造」に「たのむ」を書いてゐる。里見氏の戯曲を読むと、何よりも、里見氏から芝居の話を聞いてゐるやうな気がする。手に取るやうに舞台を見せてくれる。読者は少しの想像力をも働かせる余地がない。といふことは、結局戯曲の読者に取つては少々有難迷惑ではあるが、戯曲の読めない読者に取つてはこの上もない幸ひであらう。「白扇の下に」は思ひつきだけの面白さだが、「たのむ」の方は、それ以上に、ふんゐ気から来る面白さがある。どちらも、短いものでありながら、準備説明が長すぎるが、その説明の終るところから、急に、場面が緊張しはじめる。登場人物は、何れも型通りの白《せりふ》をしやべりつゝ、それが活々と動いてゐるのはどうしたわけか。表現の確かさはこの作者の強味である。せめてこの描写力に、応はしい心理解剖の鋭さがあればと思ふ。会話の「いき」は流石手にいつたものだが、それだけでは戯曲の文体として上乗なものだとはいへないやうに思ふ。なぜなら、その言葉には陰影が乏しい。従つて暗示力が希薄である。読者をひきずつては行くが、読者の眼は、作者の忙しい指先を追つて、次から次へと物の象を見るばかりである。あれも見た、これも見た、あれも面白かつた、これも面白かつた、そして、……? それだけだ――といふ旅をしたやうである。一体どこへ行つた? ――あ、それや、気がつかなかつた――といふ旅である。熱い国か寒い国か? ――忘れたといふ旅である。一寸変つた旅ではあるが、なんと話にならぬ旅ではないか。夢なら夢でまた話のしやうもあるものを……。
「助次郎、すぐ身を起し、流しもとから、菜切ばう丁をぬき持たうとするが、刑事に、ぐいと腰なはを引かれて取り落す。」あたり、思はず読者の方で浮腰になる。しかし、この時、作者の眼が、割合に物を言つてゐない。それがさびしい。これに反して、為吉が徳利の酒を湯のみに注いで、助次郎の方に差だすあたりから、今度は、作者が、のそ/\と出しや張つて来るのが眼ざはりだ。要するに、名小説家里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]氏は、主人公助次郎の如く、舞台という腰なはをつけられて、足は動いても手がだせない状態である。それにつけても、同氏の小説を読んで御覧なさい。僅五六行の会話の一節でさへ陰影と暗示に富む好個の劇的場面を見せてゐるではないか。あれがあのまゝ、なぜ戯曲にならない
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング