ものか。
「改造」は新進池谷信三郎氏の「帰りを待つ人々」を紹介した。相当の期待をもつて読んだが、果してコンポジシヨンの上に大胆な新味を見せてゐる。と、思ひながら読んでゐるうちに、部分部分の技巧は寧ろ一種のマンネリズムに堕してゐるのに気がついた。各種の人物を対立させて、断片的な幻象《イメージ》の交錯を企図し、そこからコンチエルトに見る効果を心理的に誘致しようとした作者の野心は、僕の尊敬おく能はざるところであるが、その幻象の、その心理的ノートの不統一と不確かさとが、惜むらくは、全篇の印象を支離滅裂なものにしてゐるやうである。僕の見るところでは、作者は、第一に言葉の選択を誤つてゐる。その言ひ方がわるければ、言葉そのものの好悪にとらはれ過ぎて魂の声に耳を傾けることを忘れたらしい。それがために、人物それ/″\の色彩から「絵画的リズム」をさへ引だすことができなかつた。この種の舞台に、それを欠くことは致命的な痛手である。作者は、恐らく、人物の幾人かをして故《ことさ》らに空虚な、大げさな言葉を語らせて、その言葉の裏から、間から「あるもの」を感じさせようとしたのだらう。その「あるもの」を、作者は、一体、はつきり見てゐるのだらうか。僕の疑問はそこにある。芸術的危機に立つこの作者の再考を求めたい。
色調と時代的意識の差こそあれ、つとに「帰りを待つ人々」の手法をさりげなく取りいれて、見事成功してゐる作家に久保田万太郎氏がある。曾て「月夜」を書き、今また「通り雨」を書いていつもながらの腕のさえを示してゐる。久保田氏は、何よりも「あいさつの詩人」である。
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……(急に)おさきへ失礼いたします。――(不意を食つたかたちに)おかへりですか? ――へえ。――いゝぢやありませんか、まア。――もう少し……。――へえ、有難うございます。――一寸これから、わきへ一けん寄つてまゐりますから……。――さうですか。――どうも有難うございました。――いづれ改めてうかゞひます。――どうぞお宅へよろしく被仰つて下さい。――おそれ入ります。――いえ、もう、子供のことでございますから、……。――(しみじみ)さぞ、しかし、お内儀さんがお力落しでせう。――……。――ちやうど、いま、可愛さざかりで……。――(しみじみ)全く死ぬ子眉目よしだ。(間)――では、御免下さいまし。(榎本と岩井屋に)どうぞごゆつく
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