連ねる戯曲作家なるものこそ、正に眉唾ものである。
 自分のことはまづ棚に上げて、こんなものを書いてゐては困るなあと思ふやうな人が、いつまでも戯曲家で通つてゐたり、おやおや、とうとうひどくやつゝけられたな――いよいよ致命傷を受けたなと思つてゐると、翌月の雑誌には、また麗々しく戯曲何々の作者として、その名前が出てゐたりする当今、戯曲時代は、百花爛漫その実は百鬼昼行の時代である。
「上演されるといふ心配」がまづ無い――さういふ時代の戯曲家は、いゝ気なもので、何んと云つても、独りよがりが許される。
 独りよがりもよからう。よからうから、一つさういふ戯曲家は、お互に何んとか、絶対に上演されないやうな工夫を廻らして、折角の夢をさまさないやうにしようではないか。

 戯曲家の方ではさういふ組合なり、何なりを作るとして、今度は芝居の真似でもして見ようと思ふ人達は、今こそ、乗ずべき時である。
 僕の考へでは、今時の戯曲の中には、とても所謂玄人が上演しさうもない戯曲がざらにあるから、さういふ戯曲の中から、兎に角、こいつは変つてるなと思ふやうなものを探し出して、それを舞台にかけて見たら、面白からうと思ふ。

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