頭だ――全く舞台に立つた経験もなく、彼等の演出法から何らの影響をも受けてゐない人々が、今一つの脚本を演じて見ようと云ふ希望を抱いて、彼等と全く異つた――そして、それのみが正しい――方法によつて、彼等よりはほんの少し長い時間を稽古に充てたならば、僕はきつと、その結果が、彼等の「仕事」よりも仕事らしく、彼等の「芝居」よりも芝居らしく、彼等の「芸術」よりも芸術らしいものに到達することを信じて疑はない。
諸君は、かくして、たゞ一回舞台を踏んだだけで、すぐに「彼等よりも玄人」に、「彼等よりも真物」に、「彼等よりも芸術家」になり得ることを僕は保証して置く。
然し、それが為めに諸君は、直ちに「俳優」になつたと思つてはいけない、「玄人」に、なつたと思つてはいけない。「仕事」はそれからだ。「芸術」はそれからだ。
諸君に天分さへあれば、それからの修業次第で、啻に新日本の名優たり得るのみならず、実に日本新劇の創始者たり得る余地が十分にある。今のうちなら十分にある。
僕は、似而非玄人の前に尻込みをしてゐる素人に、「今が俳優になり時」であることを告げて、僕の言を聴いてくれた人と共に、機を看るの明を誇りたいと思ふ。
少々、煽動家《デマゴオグ》の口吻になつて来たが、それはどうでもいゝ。一つ、やつて見たまへ。
時に、さういふ素人に脚本を提供してくれる戯曲家がゐないだらうといふ疑問が起るかも知れない。殊に、「自作上演拒否同盟」でも作られては、一寸困るだらうといふ心配もあらうが、なあに、そこにはまたいろいろ、何があつて、例へば僕の如きは、さういふ同盟には入らないつもりでゐるし、また、前に述べた同人雑誌『戯曲時代』の諸君のうちでも山根邦夫君の如きは、「戯曲作家のもとに演出相談に走る舞台監督は自分の無能を示すものと知れ」と力んでゐるくらゐだから、同君の作品なら、どんな演出をしたつて黙つてゐてくれやうし、従つて「上演されることを心配して」ゐるわけでもあるまい。
僕は、僣越ながら、将来の「素人劇団」に、その第一回試演として、山根邦夫君作『操られる人間』を上演されんことをお勧めする――勿論、読んで見て面白いと思つたらだ――。但し、第二回試演には、もう少し疲れないものをやつても好い、西洋にも、カイザアやグラウ(『ピグマリヨン氏』の作者)ばかりゐるわけではない。
「脚本の書き時」は、やがて「役者になり
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