連ねる戯曲作家なるものこそ、正に眉唾ものである。
 自分のことはまづ棚に上げて、こんなものを書いてゐては困るなあと思ふやうな人が、いつまでも戯曲家で通つてゐたり、おやおや、とうとうひどくやつゝけられたな――いよいよ致命傷を受けたなと思つてゐると、翌月の雑誌には、また麗々しく戯曲何々の作者として、その名前が出てゐたりする当今、戯曲時代は、百花爛漫その実は百鬼昼行の時代である。
「上演されるといふ心配」がまづ無い――さういふ時代の戯曲家は、いゝ気なもので、何んと云つても、独りよがりが許される。
 独りよがりもよからう。よからうから、一つさういふ戯曲家は、お互に何んとか、絶対に上演されないやうな工夫を廻らして、折角の夢をさまさないやうにしようではないか。

 戯曲家の方ではさういふ組合なり、何なりを作るとして、今度は芝居の真似でもして見ようと思ふ人達は、今こそ、乗ずべき時である。
 僕の考へでは、今時の戯曲の中には、とても所謂玄人が上演しさうもない戯曲がざらにあるから、さういふ戯曲の中から、兎に角、こいつは変つてるなと思ふやうなものを探し出して、それを舞台にかけて見たら、面白からうと思ふ。
 面白からうといふのは、誰が見ても面白からうといふ意味では勿論ないが、そんなことには頓着なく、自分たちさへ面白ければいゝといふぐらゐのつもりで、玄人の真似なんか一切せず――さうかと云つて、素人ぶる必要は決してないが――何よりも先づ今迄日本にない芝居を創り出すといふ意気込みで、何か始めて見たらどうだらう。
 金などは大して要らない。その代り、時間を十分かけて、みつしり稽古をする。
 一つの戯曲を如何に演出するか――このことばかりに気を取られて、戯曲の演出とは如何なるものかといふことを忘れてゐる場合が多い。つまり、如何にして巧みな演出をしようか――さう考へる前に、如何にして正しい演出をしようか――と考へなければうそだ。
 これだけの事を信条として、仕事を「初めから始め」得る素人劇団の出現は、目下極めて意義があると同時に、「我々の演劇」は、どうしても、そこから出発しなくてはならないやうに思はれる。
 それはつまり、今日、新劇の劇団と称せられるものゝ仕事は、既に、成長を阻まれた過去の存在に過ぎないと断言し得るからである。
 現在新劇を演ずる俳優――せめて、彼等だけの頭をもつて――それが何といふ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング