つて、立派に、「戯曲的生命」を伝へ得る磯会があるといふことだ。
随分廻りくどいことを並べて来たが、いよいよ、本論にはひることにする。
戯曲を文学として読む場合に、作者の幻象《イメエジ》が、そのまま読者の幻象となり得ることを、戯曲作家と雖も、小説作家と等しく期待してゐるのである。戯曲作家は、普通、「舞台を頭に置いてゐる」と云ふが、これが、「舞台など頭に置いてゐない」読者、乃至批評家の気に入らぬところらしい。しかし、さういふ手前味噌は意にかけない方がよろしい。万一「舞台」を頭におかなければ、面白くないやうな戯曲があれば、「舞台」を頭においても面白くないに極つてゐるのだ。ただ、「舞台」といふ言葉を、「戯曲の世界」又は、「戯曲の時間的空間的生命」といふ意味に解すれば、それはまた別だ。つまり、さうなると、劇場や俳優は問題でなく、作家の観察と想像が描き出す物語の一場面を、記憶と連想によつて立体化し、耳と眼の仮感にまで歴々と訴へ得る能力、これさへあれば、どんな戯曲でも、隅々までわかる道理である。そして、そこに、一脈の生命感をとらへ得たら、その戯曲は、読まれたことになるのである。
当り前のことの
前へ
次へ
全15ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング