いて、私は、すばらしい「戯曲的」感動をしみじみと味つた記憶がある。
そして、更に、声を大にして云ひたいことは、古来、東西の戯曲作家を通じ、その作品の芸術的高さを以て論じるなら、これを純然たる「戯曲」としてみる時に於てすら、大多数の専門戯曲作家は、小数の小説家兼戯曲作家に、遠く及ばない事実を発見するのである。
私は、少し、小説家の肩を持ちすぎたやうだ。
誰でも云ふことであるが、なるほど、小説は一人で読むものであり、戯曲は多数に見せるものだ。それゆゑ、小説は、いくら「高踏的」でもかまはないが、戯曲は、ある程度まで「普遍性」をもつてゐなくてはならぬ。従つてこの二つのものを、芸術的深遠さ乃至潔癖さに於て比較することは、元来無理である――と。
しかし、私は、戯曲を多勢に見せるものと限る因襲的見解に服し難い。ここに少々贅沢な演劇愛好者がゐて、自分一人が見物するための劇場を設備し、自分一人のために俳優を傭つて、静かに幕をあげさせることが、果して不可能だらうか。
これは、だが、譬へである。私の云はうとすることは、さうでもしなければ、上演の望みがないやうな戯曲も、ある種の「読者」をもつことに依
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