六かしい。また、喧嘩をしたあとの人間の気持などよりも、喧嘩をしてゐる最中の凄まじい光景により以上、興味をもつのが普通であるから、劇作家は、つい、そつちを選ぶことになるまでの話で、畢竟、戯曲といふものが、喧嘩を見に行く心理に投ずることを必要と考へれば、もうそれまでの話である。喧嘩が済む。見物は散つて了ふ。額の血を拭きながら横町に消えて行く男の心持などは、もう誰も考へてはゐない。戯曲が、そこから始まつてはなぜいけないのか。勿論、これは主題の選び方にもよるのであるが、何よりも一つの場面の作り方に、それぞれ興味の中心がなければならないとすれば、その興味は、通俗的であることも芸術的であることもできるわけである。場面の緊張といふことは、必ずしも、見物に「ある期待」をもたせるといふことではない。「どうなるか」といふ興味は、結局、通俗的な興味にすぎない。さういふものがあつてもかまはないが、それ以上の魅力がなければならない。それは、前にも述べた「生命の韻律的表現」による心理的又は動性的《デナミツク》な美感である。それは音楽に比すれば諧調の美である。瞬間瞬間、一語一語、一挙一動によつて醸し出される雰囲気の
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング