上してゐるとは云へないものである。
 極めて大ざつぱな論じ方のやうであるが、小説家が小説的に人生を観、戯曲家が戯曲的に人生を観るといふことがあり得るにしても、その「小説的」な観方が直ちに「芸術的」な観方でなければならぬ如く、「戯曲的」な観方が、結局「芸術的」な観方でなければならないといふ点で、現在の戯曲家乃至戯曲批評家の頭がはつきりしてゐないのではないかと思はれる。
 ここで、第一、問題になるのは「戯曲的」といふ言葉である。芸術的といふ意味を含んだ「戯曲的」といふ言葉である。かうなるともう「表現」といふ問題に結びついて来るが、ここでは「表現以前」のもの、即ち劇作家の芸術的霊感が、小説家のそれと如何に違ふか、延いて、「戯曲以前のもの」は、「小説以前のもの」に対して、如何に区別さるべきか、この点について一考してみたいと思ふのである。
 芸術家の立場によつて、その制作過程や、制作動機がまちまちであることは当然であるが、所謂「主題」の捉へ方に於て、劇作家が小説家と異る一点は、ただ、生命の韻律《リズム》に興味を繋ぐか、或はその姿態《ポオズ》に心を傾けるかによつて生じるのであると思ふ。これは必ずし
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