流れである。観衆をして何等の期待なく、何等の予想なく、而も倦怠と焦燥を感ぜしめないで、刻々の陶酔境にひたりきることを得させれば、もう場面の切り方など重要な問題でない。しかし、さういふ結果を得るために、全体としてやはり、場面の切り方は問題になるのである。しかし、これも詮じつめれば場面の統一と調和、場面と場面との関係から生じる韻律的効果、それ以外のものではない。
 次に来るのは「戯曲の文体」であるが、これは、前二章に亘つて論じた通りである。
 そこで、私は、「戯曲以前のもの」といふ標題を選んだ理由を明かにしなければならない。
 これはもう、小説とか戯曲とかいふ境界を超越して、文学的制作一般に関する根本的の問題である。従つて、この一点だけで既に、あらゆる文学作品の根本価値が決定されるわけである。戯曲としての価値、小説としての価値、更に一幕物としての価値、三幕物としての価値、悲劇として、喜劇としての価値、それらの価値問題は、この根本価値の上に定めらるべきことであつて、この一点で凡庸な、或は劣等な作品は、戯曲として如何にその価値が論ぜられようとも、その価値は結局、他の芸術的作品の傍らでは、何等の権威もないことになる。これは云ふまでもないことである。
 この根本的価値こそは、ここで云はうとする「戯曲以前のもの」なのである。
 ある人は云ふであらう。その根本価値とは、つまり作品の「内容」を指すのではないかと。しかし、「内容」といふ言葉は使ひたくない。なぜなら、この言葉には「在るもの」といふ意味が先に立つて、「把握したもの」といふ意味が稀薄になるからである。客観性のみ伝へられて、寧ろより主要な主観性が閑却せられる恐れがあるからである。
 愛し合つてゐた男女が結婚する。しかし、間もなく、男には別の女が出来た。すると、前の女は、絶望のあまり海に投じて死ぬ。これは、戯曲の「筋」であると云へるかもしれない。しかし、決して「内容」ではない。それならば、作者が若し、この戯曲によつて、男女の恋愛に対する、宿命的な心理傾向を示さうとしたと仮定すれば、それはなるほど、この作品の「内容」であると云ひ得よう。ただ、それは、あくまでも「内容」であつて、作品の「創造的価値」とは何も関係はない。
 それならば、作品の「根本的価値」を左右するものは何かと云へば、この問題に対する作者の「興味のもち方」である。「態
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング