るやうに思はれてゐるが、これが若し、「劇的事件の推移」乃至は「筋の運び」といふやうな立場から、先づ準備説明《エキスポジション》を必要とし、劇的高潮《クライマツクス》を経て大団円に至るといふやうなことなら、誰しも心得てゐることであつて、これは戯曲に限らず、興味中心の物語には常に応用されるコンポジションの常套手段である。
喧嘩の話をする。ちやんとこの型に嵌めて、先づ喧嘩の起つた理由から、喧嘩の有様、喧嘩が済んで双方が仲直りをするなり、一方が殺されるなり、二人共警察へ引つ張られるなりする処で話が終るといつた風である。が、それは喧嘩に対する興味が一般にそれだけで満足されるからであつて、またそれが一番解り易く、一番話し易いからであつて、若し、これを喧嘩の最中から物語を起すとすると、一寸六かしくなる。まして、仲直りの場などから始めると、なかなか骨である。成程、戯曲では、時間的に順序を追つて場面を展開させる必要があるからでもあるが、喧嘩の話を戯曲に仕組むにしても、必ずしも喧嘩の場面を使はなくてもいい。それを使ふより以上に面白い場面が、喧嘩後のある場面にあり得るのである。ただそれを面白く現はすことが六かしい。また、喧嘩をしたあとの人間の気持などよりも、喧嘩をしてゐる最中の凄まじい光景により以上、興味をもつのが普通であるから、劇作家は、つい、そつちを選ぶことになるまでの話で、畢竟、戯曲といふものが、喧嘩を見に行く心理に投ずることを必要と考へれば、もうそれまでの話である。喧嘩が済む。見物は散つて了ふ。額の血を拭きながら横町に消えて行く男の心持などは、もう誰も考へてはゐない。戯曲が、そこから始まつてはなぜいけないのか。勿論、これは主題の選び方にもよるのであるが、何よりも一つの場面の作り方に、それぞれ興味の中心がなければならないとすれば、その興味は、通俗的であることも芸術的であることもできるわけである。場面の緊張といふことは、必ずしも、見物に「ある期待」をもたせるといふことではない。「どうなるか」といふ興味は、結局、通俗的な興味にすぎない。さういふものがあつてもかまはないが、それ以上の魅力がなければならない。それは、前にも述べた「生命の韻律的表現」による心理的又は動性的《デナミツク》な美感である。それは音楽に比すれば諧調の美である。瞬間瞬間、一語一語、一挙一動によつて醸し出される雰囲気の
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