。クウルトリイヌやルノルマンの作品をそのために選んだ。結果はやはりあまりよくない。
今度、近代劇全集が出るについて、僕は、自分が訳さうとは嘗て思ひ設けなかつた数々の作品を、いろいろの事情で引受けなければならなかつた。かうなると、もう翻訳などといふ仕事は、面白くもなんともない。
殊に、ある種の作品は、それが舞台で上演されてゐるのを見たり、または、ただ一と通り眼を通したりするだけなら、なかなか面白くもあり、一応感心さへするのであるが、さて、それを翻訳するとなると、一日にせいぜい五頁か十頁を何時間もかかつて読むわけになるのだから、どうかすると、果してこれほどまでに苦心する値打のあるものかといふ、後悔焦燥に似た気持を味ふことが屡々ある。
ブウエリエや、ベルナアルを訳した時がさうである。
小説なら、その文体の如何を問はず、おのづから一つの調子に乗つて、訳筆は思ひの外すらすらと進むのであるが、戯曲は、どんな戯曲でも、一句一節毎に、新たに対話の呼吸を生み、訳筆はその呼吸を活かすことなしに進めるわけに行かぬ。名戯曲は、兎も角もそこに苦心の仕甲斐もあり、一つの会話の受け渡しに、何時間費しても惜し
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