くないのであるが、それほどでもない代物は、いくら考へてもしれたものであるし、考へなければ考へないで、また翻訳者の責任であるから、実に進退維谷まるのである。
しかしながら、同じ作品でも、翻訳者にその人を得るか得ないかで、その価値が或は高く、或は低く評価される場合があるのだと思ふと、翻訳もうつかりできないことになる。
僕は、欧米の劇作家で、今日までわが国に紹介された人々のうち、あるものは非常に損をしてゐると思ふことがある。
戯曲の翻訳者は、必ずしも舞台を識る必要はない。ただ、戯曲家的才能があればよい。戯曲家は舞台(現在までの)なんか識らなくつていいのである。
なほ、戯曲の翻訳者は、理想をいへば、戯曲家でない方がいい。戯曲家は、翻訳するつもりで翻案をしてしまふことが多い。ヴィニイの翻訳になるオセロは、シェイクスピイヤから遠いものである。坪内博士もその例に漏れずである。
小山内氏は、どこかで、自分は演出者としての立場から翻訳をするといふ意味のことを云つてゐたが、それは、考へやうによつては、当り前のことであるし、また考へやうによつては不都合なことである。なぜ当り前かといへば、演出者の立場といふのは、最も舞台的にといふ意味にとれるからである。また不都合だといふのは、演出家には、それぞれ動かせない流儀があり、いろいろの戯曲をその流儀に当て嵌めて「書き直す」ことは、それが故意に行はれただけ、原作者に対して越権である。
ここで「書き直す」といふ言葉を使つたのは理由がある。翻訳者の多くは、原文を頭から完全無欠なものと心得てゐるであらうから、まあ問題はないのであるが、時たま、ある原文の一箇所が、どうも面白くない。寧ろ、かう云ひ直した方が面白いと思ふやうなことはないだらうか。勿論、それは、単なる文章の上のことでもいい。単語の位置を置き換へるぐらゐの違ひでもいい。さういふ場合、翻訳者は、それを原文のまま「あまり面白くなく」訳しておくか、又は原文に少しの訂正を加へて、「より面白く」訳しておくか。
僕は、その何れがよいかまだ決し兼ねてゐる。恐らく、訂正を加へない方がよいだらう。これが却つて原作者への礼儀かもしれない。なんとなれば、殊に戯曲に於ては、作者が故意に「へたな」エキスプレスションを用ふることがあるであらうし、又、さうでなくても、一語一語の効果は、それが肉声化される場合を顧慮
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