戯曲の翻訳
岸田國士

 自分の好きな作品、何遍も読み返した作品を、ゆつくり、丹念に翻訳することができたら、愉快であると同時に、結果もよからうと思ふが、今までは、なかなか、さう誂へ向きな仕事はできなかつた。
 僕は、これでも、十篇近くの長短篇戯曲を訳したことになるが、原作は読んでないといふ北村喜八氏の批評を俟つまでもなく、どれも自分流で、それだけ満足といふ域に達してゐない。あるものは、なるほど、いつまでといふ期限はなく、毎日少しづつ、精読しながら訳したものもあるにはあるが、その他は大概間に合せ仕事である。
 僕は、初め、自分の勉強のつもりで、ある種の戯曲を訳してみようと思ひ立つた。よく読めば読むほど、訳語を見つけるのが困難になつた。とても翻訳なんてできるもんぢやないと思つたこともある。ルナアルの「日々の麺麭」や、「別れも愉し」等、あの原作の妙味は、到底日本語では伝へられない。さういふ気持は、僕を非常に臆病にした。結局、日本語は戯曲を書くの適しない言葉ではないかといふ疑ひさへ起つた。
 それから、思ひきつて、翻訳の態度を改めてみた。語義の穿鑿をやめて、読みながら訳すといふ方法を取つてみた。クウルトリイヌやルノルマンの作品をそのために選んだ。結果はやはりあまりよくない。
 今度、近代劇全集が出るについて、僕は、自分が訳さうとは嘗て思ひ設けなかつた数々の作品を、いろいろの事情で引受けなければならなかつた。かうなると、もう翻訳などといふ仕事は、面白くもなんともない。
 殊に、ある種の作品は、それが舞台で上演されてゐるのを見たり、または、ただ一と通り眼を通したりするだけなら、なかなか面白くもあり、一応感心さへするのであるが、さて、それを翻訳するとなると、一日にせいぜい五頁か十頁を何時間もかかつて読むわけになるのだから、どうかすると、果してこれほどまでに苦心する値打のあるものかといふ、後悔焦燥に似た気持を味ふことが屡々ある。
 ブウエリエや、ベルナアルを訳した時がさうである。
 小説なら、その文体の如何を問はず、おのづから一つの調子に乗つて、訳筆は思ひの外すらすらと進むのであるが、戯曲は、どんな戯曲でも、一句一節毎に、新たに対話の呼吸を生み、訳筆はその呼吸を活かすことなしに進めるわけに行かぬ。名戯曲は、兎も角もそこに苦心の仕甲斐もあり、一つの会話の受け渡しに、何時間費しても惜し
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