に悲しむべき状態と云はねばならぬ。
私は、そこで、手つ取り早い例を挙げるが、最近、外国トオキイの魅力が一般に云々されてゐる際、これを映画的魅力とのみ解するのは甚だ偏見で、寧ろ、西洋演劇の本質的魅力が、その一半を占めてゐると云ひたいのである。殊に、俳優の演技を通して感じられるものは、少くとも、これを舞台に移してそのまま舞台の幻影《イメエジ》を組立て得るものであり、日本の「新劇」は、初めて舞台表現の貴重な模範を示されたと云つていい。彼等の人種的特質が、そのまま俳優の魅力だと速断するものもあるまいが、彼等の演技を見て、「われら及ばざること遠し」と嘆ずるものがあつたら、それは西洋演劇の本質について、全く無知な人々と云はねばならぬ。わが新劇が、西洋劇をお手本とし、しかも、肝腎なものを捨てて顧みなかつた結果が、ここに現はれたのだと、もう気づく人は気づいてゐるであらう。
今日の「新劇」が面白くないといふことを荐りに云ふ人がゐる。なぜ面白くないかといふ理由を、種々挙げてゐるのを見ると、どれも、その根本をついてゐない憾みがある。
或は脚本が文学的すぎるとか、スペクタクル的要素が欠けてゐるとか、社会
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