る新帰朝者の欧洲演劇観なるものを読む機会を得た。その人は、演劇の専門的研究を目的として西洋へ渡つたらしいが、その感想のうちに、次のやうな意味のことが語られてゐる。偶々巴里で観た芝居が、仏蘭西語のわからない自分にも非常に面白く感じられ、「白」の意味は通じないに拘はらず、俳優の演技を通じて、その芝居の筋や人物の感情もほぼわかり、全体として、まづ観劇の興味を十分に満たし得たと云ひ、且つ、さういふ結果からみて、「演劇に於ける言葉の役割といふものは極めて微々たるもので、眼に愬へる要素さへ保たれてゐれば、舞台は完全な魅力を発揮するものだといふことを知つた」と大胆に云ひ切つてゐるのである。
 日本の演劇専門家は、今もつて、この意見に賛成するものが多からうと思はれる。ところが、実は、この理窟には、根本的な自家撞着が含まれてゐる。
 日本の芝居と西洋の芝居とは、そこが事情の違ふところで、西洋の芝居は、概して、「白」の意味がわからなくても、「白」の味がわかるのである。
「白」がわかるといふのは、この「意味」がわかるといふことだけではない、「白」はすべて、はつきりした表情をもつてゐるのである。この表情は、音
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング