しての魅力」を閑却されるのが常であり、創作戯曲は勢ひ、一と通りの意味さへ通ればよい「白」で書かれ、かくて、舞台の「言葉」は、「動作」の従属的地位に置かれて、遂に「新劇」は演劇としての「生命」を希薄にし、やがて、演出家がゐなければどんな芝居もできない俳優を作り上げ、その演出家さへ、今になつて、役者がへたで芝居がやれぬと云ひ出した。
 私は十年前、築地小劇場の旗揚興行を評して、外国劇上演に当つて、「言葉」を通じての戯曲美を逸する勿れと云ひ、俳優養成の先決問題なることを主張し、将来、家を建ててから柱を削るやうなことになるぞと予言しておいた。
 当時私は、外国劇の上演に反対した覚えはない。創作劇が演出家の演出欲なるものを唆らぬといふ理由も首肯できた。しかし、外国劇の「本質的生命」を逸しては、外国劇上演の意義が甚だ局限されるのみならず、わが新劇が、西洋劇から学ぶべきものを学ばず終る不幸を極度に懼れたのであつた。
 私のこの意見は、忽ちにして当事者を怒らせることにしか役立たなかつたが、今日の「新劇」が、十年一日の如く同じ水準に止つてゐるのを見て、私は、更にこの主張を繰り返さねばならぬ。
 最近、あ
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