空地利用
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)この方《はう》を
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思想と性格
「思想」といふ言葉がたびたび口にされる。それは常に「誰か」の思想であると同時に、右か左かといふやうな政治的意味をもつもののやうに考へられる。「思想」そのものと、思想の表現との間に、ある作用がみられることを屡々人は忘れがちであるが、それを「性格」の作用とみるのは誤りであらうか。ある思想はある性格と結びつき易く、またある性格はある思想を生み易いといふやうなことを前提として、これは不即不離なものと云へば云へるが、こゝに注意すべきことは、ある性格が思想に対して弱く、影響が速かでかつ目立つのに反して、ある性格は思想に対して強く、影響が緩慢で内部から徐々に表面に及んでいくといふやうな傾向のあることである。この強さ弱さは、性格のなんらの価値とも関係はない。たゞ、表面が一つの思想に著色される濃度によつて、むしろ、強さが弱く、弱さが強く印象づけられるのみである。思想が信念にまで昇華し、信念が思想としての体系をとる過程に於て、これに対する心理的抵抗は、性格の宿命として、思想を思想するもののみの興味を惹くに足る問題である。
観念としての思想が、やゝもすれば脆弱な性格の衣裳となつて、純然たる思想の悲劇ではなく、奇怪な思想の軽喜劇を演ずることを、時代の現象として後世はなんとみるであらう。
掛値とマイナス主義
現代の教育について多くの革新意見が提出された。いづれも当を得た、あるひは虚を衝いた意見のやうにうけとれる。
尻馬に乗るわけではないが、平生から疑問に思つてゐることを、私もついでに云はせてもらへば、ひとつは、道徳教育の上で「これくらゐに云つておいて丁度いゝ」といふやり方、つまり例外を一般の目標にさせようとする見えすいた掛値主義がこれである。それから、学校の試験制度は止むを得ないとして、試験の採点に、なぜ「間違ひ」だけ点を引くことによつて成績の上下をきめ、問題に対する予想以上の名答に対して、その問題に割当てられた点数以上の点数を与へることにより、答案全体の成績を引き上げることをしないのか。例へば二問題のうち、一問題が仮に零点でも、残りの一問題が予想以上に優秀な答案になつてゐたら、極端に云へば敢て満点をつけてもいゝではないかといふことがひとつ。
この二つの「主義」は、現代の教育に於ける最も痛ましい痕跡を国民の性情の上に印してゐるやうに思はれる。しかも、これは学校教育ばかりでなく、その延長でもあらうか、社会各方面の指導的言論のうちにこれをみるのである。
日本国民の、本来、与へられたもの以上を与へ、命ぜられることをそれ以上になさんとする、かの闊達恬淡な気宇は、教育こそがこれを尊重すべきであると思ふがどうであらう。
義腹、論腹、商腹
浅学にして私は、かういふ言葉が徳川時代にあちこちで用ひられたといふことを知らなかつた。
例の殉死の流行した時代、主君の病死に際してさへもその後を追ふ家臣が続々と現れ、遂に幕府は禁令をもつてこれを制したといふ話は、たしかに聞いたことがあるけれども、その当時、この流行に対して、かくも鋭い批判を加へるものがあつたのは、流石に日本人は隅におけぬといふ気がする。
切腹といふ行為は、もちろんそれ自身として人間力のある極致を示したものであり、客観的にも悲壮といふ言葉以外にこれを形容することは困難であるが、さういふ神聖な行為さへも、一旦流行となると、その本質から遥かに遠い動機によつて遂行されるといふ不可思議な現象を、三百年以前の日本が既にこれを示してゐたのである。即ち、義腹とは、主に称する義によつて側近たるの務めを死後にまで果さうとする、云はゞ宗教的信念に基くもので、これは、本物の殉死である。論腹とは、主死すれば臣死せざるべからずといふ論法に依つたもので、一種の理攻めであり、時によると、殉死者を一人も出さなかつたと世間で云はれるやうなことがあつては、死んだ主人もさぞ面目なからうといふやうな考慮から、自ら進んでその一人となる老臣があつたであらう。
ところで、第三の商腹とは、文字通り、算盤づくの切腹である。殉死者の世襲ぎは間違なく禄高を上げられ、主家の覚えはことのほか目出たく、うまくいけば幕府の恩賞にでも与らうといふやうな抜目のない追跡自殺を指すのださうである。何時の時代にも極めて打算的な人物はゐない筈がなく、加俸を望まない武士は、これも殆どなかつたに違ひないけれども、たゞそれだけの理由で、切腹までしてみせるとは、これこそ「ハラキリ」を辛うじて理解する外国人の常識ではとても考へられないことである。彼らには考へられないことだが、しかし、それくらゐのことはしさうだと、われわれには考へられるところが面白い、と、私は思ふ。
一念凝つて発する無気味な激しさと、生命を何ものとでも代へ得る気軽さとを、ほんたうに神聖な目的のために、われわれの独自の力としたいものである。
時は昭和の御代である。幾千万といふ日本人が悉く「死」をもつて君恩に報い奉らうとしてゐるこのすがたは、米英のともがらにはしよせん想像もつくまい。
理髪業
ある地区で商業報国会の役員会が開かれ、警察の経済関係官から一場の訓示があつた。
それはそれでよろしいのであるが、役員のうちに、理髪店を経営してゐる某といふものがゐて、訓示中、しきりに首をひねつてゐる。訓示が一向にぴんと来ないのである。それもその筈、訓示の要旨は、「物品を売買するもの」の戦時下の心構へについてであつたからである。
「理髪業は商業であらうか」といふ疑問が某の念頭にはじめて浮んだ。
「人間の髪の毛を刈るといふ仕事は、衛生上の必要と外容を整へる本能とを満足させる仕事であつて、一定の道具と技術とがありさへすれば立ち行く職である。してみると、これは整形外科医のそれとまつたく似たものである」と、気がついた。
そこまではそれでいゝ。
彼は、その席で報国会の最高幹部に申出た。「自分たちはどうも呉服屋さんや時計屋さんの仲間入りをして一緒に会を作つても、なんにもお役に立ちさうもないから、どこか適当な別の職域へ加へてもらふことにしたいと思ふ。ひとつ御詮議を願ひたい」
「まあまあ、そんなことを云はずに……」
と、これがその返答であつた。
彼は諦めかねて、誰彼をつかまへて、「いつたい理髪師は商人だらうか」と、詰問した。
「まあさうだらうね」
「だつて、君、なんにもこれといふものを売つてやしないぜ。たかが、クリームとローションの……」
「理窟はさうだけれども、お客に――毎度ありがたうと云ふぢやないか」
彼は、憮然として家に戻り、折から来合せた客の一人に、鏡に映るその無精髭を生やした顔に話しかけた。
「旦那は理髪屋へいらしつて、いつたい、何をもつてお帰りになりますか」
「うむ……なんだらうな、まあ、好い気持ぐらゐのもんかな」
「それだ」
と、彼は雀躍した。
「すると、ほかの商売に例へるとなんでせう」
「芸術家さ」
「芸術家?」
「彫刻家だよ」
「彫刻家?」
しばらく、彼は考へた。
「しかし、旦那、彫刻家つていふのは、あつしの知つてるんぢや、夜店へどしどし品物を出してますぜ」
この話は別に大した寓意を含んでゐるわけではない。近頃云はれる「職域」なるものの分類について、さう簡単にはいかぬといふ一例にすぎない。
単刀直入
日本人の最も好みに通つた物の言ひ方に、「単刀直入」といふのがある。
「言あげせぬ」といふことが、若し、「議論をせぬ」といふ意味なら、さういふところからも来てゐるのだらう。とにかく、ずばりと物を言ひ、いきなり急所要点をついて、相手に有無を云はせぬ筆法である。もちろん「武道」の呼吸にならつたものと云へよう。
実際、言論の士には、廻りくどい方も少くないが、単刀直入の使ひ手がなかなか多い。ほかのことはともかく、単刀直入だけは心得てゐるといふ風な人物もゐるのである。
うまくいけばこれほど痛快なことはなく、うまくいかなくても、相手に罪を着せることは容易であり、少くとも、こつちはもともとであるやうに思へる。
大体、人と言葉を交すことを、日本では戦闘競技に喩へる風習があつて、短兵急とか、一本参らすとか、止めを刺すとか、揚足を取るとか云ふ。尚武の国であつてみれば、それは当然であるが、たゞ、そのためには、言葉を武器として使ふほどの用意がいりはせぬかといふことを、私は近頃、ふと気がついた。
修練を欠いた言葉の操作は、それが武器のつもりであればあるほど、生兵法の危険を伴ひ、相手を戸迷ひさせ、何か間違ひではないかと、頭を叩かれながら訊ねるやうなことにもなる。
ところで、単刀直入は、やはり、禅などの影響もあり、人が眼をぱちくりさせることは勘定に入れず、極めて象徴的な一言を放つて、相手が応と受けとめてくれることを期待するところがないではない。
しかし、単刀直入の名手のみあつて、これと正面から渡り合ふ相棒がゐなくなつた今日を考へると、私はなんとなく淋しい気がする。
その証拠に、多くの議論を聴いたり読んだりすると、何れも、手応へのない単刀直入と、その解説、弁疏に満ちてゐるのである。
文化の擁護
私は嘗て二年前、「文化の擁護」といふ言葉は、この時局下に穏かでないし、さういふ考へ方も、戦争といふ国民的事業を遂行しつゝある際、今日までの模造舶来文化などに恋々としてゐるやうにみえてよろしくないから、潔く投げ棄てゝ、今後、文化の「建設」とか「創造」とかいふ方向に一大転換を試みなければならぬ、と云つた。
これは一部の人々の同意を得たやうに思ふ。
当時、一般に「文化」の概念なり、意識なりは、今日とはおよそ違つてゐたことは事実で、云はゞ「文化」の国際性といふやうなものに大きな意義を与へ、戦争も文化の一表現だなどと云へば、忽ち反対者が現れさうな情勢であつたけれども、しかしまた、一面に、「文化」は如何なる状態に於て最も健全に伸び育つかといふ問題を、真面目に考へてゐた人々もゐたであらう。
「文化」とは何ぞやといふ問題だけは、一応、日本自体の問題として解決され、日本の文化は将来如何なる方向に発展すべきやといふことすら、もはや、心あるものゝ間では、漠然とではあらうが、焦点らしいものもつかめて来たやうに思ふ。
この時に当つて、私は、前言を翻すことではなく、まつたく新しい見地に立つて、「文化の擁護」といふ言葉を、もう一度使ひたくなつたことを告白する。
それは、戦争そのものではなく、戦争に附随する様々な予期せざる生活事情のなかに、また、政治そのものではなく、政策遂行の繁雑な手順のなかに、往々、日本文化のかくあるべきすがたを見失はしめ、かくあらしむべき方向を迷はすやうな処理法が、誤つて介入することがあり、これに対して、一言の注意を加へるものがないとあつては、まことに国家のために由々しいことだからである。
たゞ、一言の注意ですむくらゐなら、わざわざ「文化の擁護」などと云はなくてもよろしいのである。私の考へをもつてすれば、これこそ、戦争目的達成の上からも、政治の日本的な在り方の上からも、なんとかして、有力な民間の声としなければならぬまでに、問題は重大性を帯びて来てゐる。
握り飯
これは実話である。あちこちで話したから二番煎じのやうな気もするが、棄て難いものなので、こゝに収録する。そして、美談とはかくの如きものであらうと思ふ。
ある若い画家が、写生のためと、暮しを安くあげるために、山間の鄙びた温泉宿で一と夏を過した。
宿の附近に駐在所があつて、そこのお巡りさんが度々その画家を訪ねて来た。遊びに来ると云つた方がいいくらゐ、お巡りさんは画家と話が合ふ。夜おそくまで夢中で話し込むこともあつた。
すると、ある晩のこと、女中が駈け込んで来て、お巡りさんに七分、画家に三分の割合で、かう告げた。
「そこの時に行き倒れがゐるさうです
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