である。
公けの宣伝が、国民の士気を鼓舞するのに役立つことは云ふまでもないが、どうかすると、また、国民おのおのが自分たちの周囲にこれほど「心を強くする」に足るものをもちながら、うつかりそれには気づかず、宣伝の方にばかり眼を吸ひ寄せられるやうなことがあつては、それこそ考へものだと、私はひそかに心配するのである。
「これを見よ」と云はれる前に、一人一人が、自分の眼で、心で、さういふものを発見し、それに感動するといふことが何よりも望ましい。
しかし、結局は、それが当り前のこととなつた時が、もつと素晴しいとも云へるのである。
敵愾心
敵のなかに、敵と敵でないものがあると云へば、恐らく不穏当にひゞくであらうが、その「敵でないもの」をも、自衛上、一刀両断するところに戦争の現実のすがたがある。
旺盛な敵愾心とは、敵のなかの「敵」を徹底的に憎むことであり、そのなかに「敵ならざるもの」があるといふ理由で、苟くも敵に気をゆるすが如き「宋襄の仁」を排撃する精神を云ふのである。
しかしながら、日本人は由来、如何なる時でも、敵のなかの敵と敵ならざるものとのけぢめをはつきりつけ、そしてなほかつ、敢然として容赦なき戦ひを戦つた。これが「ますらを」の精神であり、国民の矜りでもある。われわれの揺籃の歌は「戦ひの花」に満ちてをり「泣いて馬謖を斬る」ことは、支那ではともかく、日本では朝飯前である。
戦争の形態と条件とが、必然的に時代の色を帯びることはもちろんながら、既に国民性とも云ふべきこの峻烈にして高雅な心情を、何人も無視してはならぬ。
敵のなかの「敵でないもの」を故ら認めず、いはゆる「袈裟」まで憎ましめるといふやり口は、単に日本の伝統に反するのみならず、味方のなかの「敵」をどうかすると見逃すことになり、まして、敵とも味方ともつかぬものの始末に手古摺るといふ結果を生じ易い。
国民の士気は、もともと感情にのみ支配されるのではなく、常に良心の満足と、自ら恃むところによつて、はじめて振ひ、如何に厳しくとも、おほらかな戦ひを戦ふことによつて、益々昂るのである。最後の勝利も、かくて一段と輝かしく、鞏固なものとなるであらう。
卑俗といふこと
卑俗といふことが近頃あまり問題にされなくなつた。卑俗の最も恐るべきは、それが世間普通のこととなり易いところにあるとすれば、今まさ
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