は、まだ日本の舞台に上せられたことはないのだから、新劇に興味をもつてゐる人は勿論、傾向等の点からこれまでの新劇に慊らない人は、是非一度、今度の出演を観に来てほしい。
 此のフアルスの演出については、私は勿論責任を負ふつもりであるが、元来、「観る芝居」の要素よりも、「聴く芝居」の要素を多分にもつてゐる此の作者の作品(最近、巴里ラヂオ界の消息によれば、ラヂオ・ドラマとして放送された脚本中、此の作者のものがその数に於て第一位を占めてゐるさうである)――わけても、人物は二人きりといふ此の脚本の内容は、主として台詞の妙味に尽きてゐるのである。演出の上で、若し、何処かに欠点があるとすれば、それは私の不注意、不熟練に在るのであるが、若しまた、此の舞台が成功すれば、それは、云ふまでもなく、俳優の手柄である。
 日本でも、そろそろ、「青年の文学」のみでなく、「壮年の文学」が要求せられてゐる。新劇の方面でも、さう云ふ要求を満たして行かなければなるまい。処が、「壮年の文学」は、兎角生活の弾力を欠くか、空想の翼を折られてゐるかしてゐるものが多い。
 わがクウルトリイヌは、青年と共に哄笑し、壮年者と共に苦笑し、
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