神経に触りすぎるところがある。第二に、心理を追ふことに急で、人物の輪郭がぼやけてゐる。第三に、哲学が皆無である。その得意とする恋愛問題でさへも、それは問題となるまでに思索されてゐないのである。
この点で寧ろ、コルネイユに軍配をあげる批評家もあるくらゐであるが、そのコルネイユは、時代の進むにつれて、少しつつ領土を失つて行くのに反し、ラシイヌは、益々多くの信奉者を作りつつある。
十八世紀に至つて、繊細微妙な恋愛劇作者マリヴォオ(Marivaux, 1688−1763)が先づ、彼の直系と目される。しかも、ラシイヌの悲劇は、ここで、喜劇となつてゐることを忘れてはならぬ。つまり恋愛心理の悲劇面から急にその眼を喜劇面に転じたところに、マリヴォオの十八世紀的感覚が動いてゐる。
この時代に、ヴォルテエル(Voltaire, 1694−1778)も亦戯曲を書いてゐる。彼は自分の豊富な才能を信じてゐたから、悲劇であれ喜劇であれ、なんでも書きまくつた。彼は、また英吉利に旅をして、どえらい土産を持つて来た。英語を三年間勉強して、シェイクスピヤを読んだのである。仏蘭西の文学者でシェイクスピヤを読んだのは、
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