完全なる機械化にありとなす説、或は、演劇芸術は、唯一人の芸術家の想意に統一さるべきものであるといふ説、即ち、戯曲家と装置家と舞台監督とを兼ねた一つの頭脳が、俳優を人形として操るところに真の演劇が生れるといふ説、その他、演劇より文学を排除し、「動性《デイナミスム》」による舞台の立体的表現によつて、演劇独自の物語を仕組まうとする企て等が相次いで行はれた。
が、結局、演劇は演劇自身によつて再生するよりほか道はないことに気づき、「演劇の再演劇化」といふ合言葉が、流行するやうになつた。
それはつまり、演劇革新の名によつて、様々な非演劇的要素を舞台に横行せしめた結果、遂に演劇本来の面目を失はうとする傾向を生じたからで、「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ叫びは、要するに、「演劇の本質を正しく認識せよ」といふ警告に外ならず、近代劇の多岐多端な流れは、この一標識に辿りついて、初めて、演劇の伝統といふ問題を取上げたのである。
演劇の芸術的純化といふ目標が、やうやく、本質的な意義を伴ふやうになり、幾多の理論と古今の劇文学的生産が、その真価と生命を、「純粋演劇美」の立場から再批判されねばならぬ気運に
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