る動き」といふ重大な発見を齎したことに在る。
「生命による動き」といふ言葉は、自由劇場の闘士ジャン・ジュリヤンの演劇論中に用ひられてゐる言葉であるが、これは幸か不幸か、自然主義演劇の精神を伝へたつもりで、その実は、古今の演劇を通じて、凡そ不朽なるもののみが達し得た本質的魅力を喝破した名言なのである。
それまでは、何人も、演劇の本質は「動き」にありと信じ、その「動き」が舞台の生命となるのだと解してゐた。ジュリヤンは、この見解を「従来の演劇」にのみ当て嵌るものなりと説き、「動きによる生命の劇より生命による動きの劇へ」と、自ら標榜する自然主義劇の旗色を明かにしたのであつた。然るに、今日より見れば、「動きによる生命の劇」は、演劇の邪道であり、形骸であり、模造品であつて、「生命による動きの劇」こそ、希臘劇以来の劇的伝統――傑れた戯曲の、それによつて偉大さと光輝とを放つところのものであつた。
しかしながら、演劇と文学の握手は、文学の観念的深化に伴つて、一つの行きづまりを来たさずにはおかないのである。演劇の本質と文学の本質とが、その一点で、相背馳することとなる。
「考へさせる芝居」は、その窮極に
前へ
次へ
全56ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング