へられたことを告白しなければならぬ。
本講座で需められた「近代劇論」が、その歴史的記述から離れて、自説の紹介に終つたことは恐縮であるが、「近代劇運動」の方向が、演劇の、芸術的純化、その本質の探究に向けられてゐる事実からみても、自ら、その探究を続けることが、同時に、「近代劇」の研究にもなると信じてのことである。
戯曲乃至演劇の本質を探り得た結果、「優れた」戯曲乃至演劇とは、その本質が十分発揮され、且つ、その本質によつて、その他の要素が最も効果的に表現され、且つ、それらの要素も亦、それ自身、それぞれの意味に於て価値の高いものであり、両々相俟つて、全体的感銘の深く美しいものであるといふことがわかつた。
ところで、ここに一つ問題となるのは、それならば、戯曲乃至演劇の本質が、それのみによつて、少くとも、他の要素を最少限度に保つて、本質それ自身の魅力を極度に発揮したやうな戯曲乃至演劇の存在は考へ得ないものであらうか、といふことである。
言ひ換へれば、戯曲乃至演劇の「蒸溜水」であり、「無煙炭」である。尤も、この比喩は、芸術的にいつて不純なものを除去するやうに聞えるが、さういふ意味ではなく、芸術的には仮に純粋であつても、今日まで存在した戯曲乃至演劇なるものには、当然、物語としての文学的要素――生活描写とか、筋の発展とか、人物の性格的興味とか、心理解剖とか、主題の思想的色彩とか、社会諷刺とか、風俗研究とか、様々な要素によつて、本質が生かされ、全体の価値が生じてゐるのである。それを、さういふ文学として他の部門と共通な要素をできるだけ省き、さうかといつて、詩の領域にも踏み込まず、即ち、言葉のリズムに重心をおくのでないことは勿論、所謂「抒情」の天地を逍遥するのでもなく、哲学的瞑想を歌ふのでもない。例へば、物語の発展をある程度無視し、人物の生活を描く代りに、その類型を示すに止め、言葉と表情姿態による瞬間的イメエジに、一種の心理的リズムを托し、音楽を聴く如くに、意味の連絡なき個々の観念を追つて、次第に情緒の満足と精神の喜悦に没入するといふやうな種類のものが出来上らないであらうか?
私は、ここで、計らずも、能楽を連想する。この我が国特有の古典演劇は、たしかに、今述べたやうなジャンルに近いものだと思ふ。
所謂、「純粋演劇」の抽象的模索が、明日の形に於て現はれる以前に、過去に於ける厳然たる存在にすぎなかつたとしたら、近代演劇の進化は、甚だ頼りないものであるが、芸術の歴史には、間々、この種の皮肉が繰り返される。
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「演劇に革命の必要はない。演劇の本質は、古今の傑作戯曲の中に悉く含まれてゐる。われわれは、それらの作品の忠実な使徒たることを寧ろ矜りとするものである」
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この宣言は、近代仏蘭西演劇の最も先駆的な指導者の一人、ジャック・コポオ氏の口から発せられたものであるが、この謙譲にして確信に満ちた言葉を、私の「近代劇小論」の結語としておかう。(一九三四・二)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「岩波講座世界文学第十三回」岩波書店
1934(昭和9)年2月5日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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