先づ彼が初めてだといつてよく、従つて、仏蘭西に、隣国が生んだこの大劇作家の名が伝はつたのもそれから後である。が、彼の土産はそれだけではなかつた。それ以後の悲劇に英国劇、殊にシェイクスピヤ調を混入したのである。大胆な試みであつた。が、種がわかつてみると、世間は「なあんだ」といふことになる。彼はまた、それまで仏蘭西の舞台では見られなかつた演出上の新工夫を行つた。地方色の尊重がそれである。が、結局、同時代の筆敵ディドロが評したやうに、「彼は何を書かせても二流どころだ」つた。しかし、この説は誤りだといふ批評家もある。それに従へば、「彼は成程悲劇に於て二流の位置を占めてはゐるが、喜劇に於てはびりつこけ[#「びりつこけ」に傍点]だ」といふのである。
も一つ、ヴォルテエルとシェイクスピヤについて云ひたいことがあるが、その話は、本講座「シェイクスピアと世界文学」に本多顕彰氏が詳しく書いてをられるから省く。
要するに、その剛邁不羈の精神をもつて、仏蘭西十八世紀を睥睨したヴォルテエルは、劇作家として何もしなかつたやうなものであるが、ただ僅かに、シェイクスピヤを自国に紹介し、自分の名と作品を独逸劇壇に送り込んだことで聊か慰められるであらう。
独逸国民劇の創始者レッシングは、シェイクスピヤを以て範とし、従来の仏蘭西劇及びその模倣的傾向を一掃しようと企てた。なるほど、彼の評論集に収められた劇評によつて、当時ハンブルグ国民劇場だけで上演された脚本の比例を見ても、仏蘭西劇が大部分(約三分の二)を占めてゐるといふ有様である。その中でヴォルテエルのものがなかなか多い。そして、不思議なことには、ラシイヌが一つもないのである。序にもう少し新関良三氏の「独逸劇の特質」を参照すれば、ゲエテはヴォルテエルの悲劇を二つも訳してゐる。一方では、シルレルがラシイヌの「フェエドル」その他を訳してゐるさうである。が、何れも、仏蘭西劇の味方ではなかつたらしい。この辺の事情は、なかなかややこしいのであつて、それならこの二人が、仏蘭西劇の影響を絶対に受けなかつたかといふ問題になると、もう一度新関氏にお尋ねしてみなければわからなくなる。
話を先に進めよう。独逸にはやがて、所謂シュトゥルム・ウント・ドランクの時代が来る。仏蘭西にも亦、十八世紀後半に於て、演劇革新運動の第一声が挙げられる。
ニヴェル・ド・ラ・ショオセ(〔
前へ
次へ
全28ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング