語として甚だ厄介な言葉となつた。
戯曲について云へば、劇的主題といひ、劇的結構といひ、劇的文体といふ、それぞれの「劇的」なる形容詞は、人々によつて、また使用される場所によつて全く異つた内容を与へられてゐるといつていい。このことに注意を向けた上で、ある戯曲が、真に「戯曲的」であるといふことは、要するに、主題と結構と文体とを通じて、必ずしも、所謂「ドラマチカル」な要素を感ぜしめなくてもよい、その代り、一種のリズミカルな生命の流れ、統一と調和に富んだ心理的イメエジの進行、鮮明確実な舞台的脈搏、生彩ある魂の見事な交響楽、などと、名づければ名づけられるやうな印象を受け得た場合を指すのである。
そして、この印象は、要するに、その戯曲の「本質的生命」から来るのであるから、その本質をして、最も光輝あらしめ、また、その本質によつて、更に偉大さを示した作品的要素は、戯曲の全体的感銘として、最後に評価さるべきである。例へば、作者の思想であるとか、人物の描写であるとか、時代的感覚であるとか、機智であるとか、ポエジイであるとか、観察であるとか……。
「本質」とは、要するに、「それがなければならぬもの」であり、「それだけで十分なもの」ではない。戯曲が先づ戯曲であるために、戯曲が他の文学の種目《ジャンル》と区別されるために、戯曲がそれによつて芸術的生命の核心を作るために、第一に具へてゐなければならない条件――やかましくいへば美学的要素を指すのである。これはかの、「戯曲的制約」と称する形式上の問題を離れるわけに行かぬが、制約は、死物である。何人も一度これを知れば足りるのである。芸術的本質とは云ひ難い。
以上の「戯曲本質論」は、私が演劇の実際家として、日頃頭の中で捏ね返してゐることを記してみたのであつて、恐らく、説明の不備と体系を欠く故を以て、一部の人には受け容れられないかもしれぬが、これは、必ずしも独断ではなく、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の首脳、ジャック・コポオ氏(Jacques Copeau)の主張と実際の仕事から、立論の根拠を与へられてゐるといつてよく、殊に、「裸の舞台」云々の一句は、そのまま氏から借用したものである。それと同時に、散文と詩との区別に関して、哲学者アラン氏の説から貴重な啓示を受け、十年来の自説に一層確定的な信念を加へ得た一方、戯曲の本質を定義する上に、推論上の一階梯を与
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